王重裔
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安州・均州・洺州の刺史を歴任した王達の子として生まれた。このため洺州の家に育った。幼くして沈着温厚で勇気があり、騎射を得意とした。冠礼を受ける前の年齢で、晋王李存勗に仕えて庁直となり、管銀鞍契丹直をつとめた。後唐の荘宗李存勗に従って開封府・洛陽を平定し、禁軍指揮使に累進した[1]。
後晋の天福6年(941年)、成徳軍節度使の安重栄が反乱を起こし、開封府を目指すと、杜重威が軍を率いてこれを阻もうとした。反乱軍は宗城県の東に布陣し、戦線が膠着した。杜重威は恐れて、撤退を図ろうとした。重裔は「兵家は退却を忌むものです。公の麾下の兵を両翼に分けてください。重裔が敵の中軍に当たり、公のために陣を陷せば、敵は必ず狼狽いたしましょう」といった。杜重威が重裔の進言に従うと、安重栄は敗走した。功により重裔は護聖軍右廂都指揮使に転じ、費州刺史を遥領した[1]。
天福12年(947年)、後漢が建国されると、重裔は禁軍をつかさどり、大名府の平定に従い、深州刺史に転じた。南唐が李守貞の乱に乗じて東南辺に侵入してくると、重裔は亳州防禦使となり、さらに徐州巡検に任じられ、知徐州軍州事を兼ね、検校太傅を加えられた[2]。
後周の広順元年(951年)、太祖郭威が即位すると、重裔は爵邑を加えられ、功臣に改められた。この年の夏、病没した。享年は53。武信軍節度使の位を追贈された[3]。