王雅 (東晋)
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大鴻臚の王景(王粛の子の王隆の子)の子として生まれた。若くして名を知られ、州に召されて主簿となり、秀才に挙げられた。郎中に任じられ、永興県令として出向した。尚書左丞・尚書右丞・廷尉・侍中・左衛将軍・丹陽尹を歴任し、太子左衛率を兼ねた。孝武帝に礼遇され、外任にあっても、たびたび謁見を受け、朝廷の大事の議論には多く参与した。太元20年(395年)、太子少傅となった。後に領軍将軍・尚書・散騎常侍に転じた。
太元21年(396年)に孝武帝が崩ずると、王雅は突然に失脚した。安帝のもとで、司馬道子や王国宝が専権をふるい、これに対して北府の王恭や西府の殷仲堪らが反抗して、東晋は混乱に陥ったが、王雅はこの争いに関与せず、沈黙を守った。隆安2年(398年)11月、尚書左僕射として再起した。隆安4年(400年)6月、尚書右僕射に転じた。同年8月、死去した。享年は67。光禄大夫・儀同三司の位を追贈された。