王難得

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王 難得(おう なんとく、生年不詳 - 763年)は、唐代軍人本貫沂州臨沂県[1]

王思敬の子として生まれた。勇敢で決断力があり、騎射を得意とした。天宝初年、河源軍使をつとめた。馬に乗って槍をたばさみ、吐蕃のツェンポの子の郎支都を刺殺して、その首級を長安に送った。凱旋すると、玄宗の謁見を受けて、殿前で郎支都を刺したいきさつを物語った。錦袍金帯を賜り、左金吾衛将軍に任じられた[2][3]

天宝7載(748年)、難得は哥舒翰に従って吐蕃を積石軍で攻撃し、吐谷渾の王子の悉弄参および婿の悉頬蔵を捕らえて凱旋した。左武衛将軍・関西游奕使に任じられた。天宝9載(750年)、吐蕃を討ち、五橋を占領し、樹敦城を落として、白水軍使をつとめた。天宝13載(754年)、九曲を占領に従軍して、特進を加えられた[4][5]

天宝14載(755年)に安禄山の乱が起こると、翌年に難得は哥舒翰に従って潼関で戦った。潼関を失陥すると、粛宗に従って霊武に赴いた。ときに行在では軍に対する報償費が欠乏していたため、難得は絹3000匹や金銀器などを進上した。至徳元載(756年)、衛尉寺卿・興平軍使に試用され、鳳翔都知兵馬使を兼ねた。長安を奪回するにあたって、反乱軍と戦った。その部下の靳元曜が落馬すると、難得は駆けつけてかれを救おうとした。反乱兵の射た矢が難得の眉に当たり、皮膚を穿って目をふさいだが、難得は自ら矢を抜き、顔面血みどろで戦い続けた。郭子儀に従って安慶緒相州で攻撃し、琅邪郡公に封じられ、英武軍使をつとめた。宝応2年(763年)、死去した。潞州大都督の位を追贈された[6][5]

子に王子顔があった[2][5]

脚注

伝記資料

参考文献

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