生田乃木次 From Wikipedia, the free encyclopedia 生誕 1905年2月3日福井県死没 (2002-02-22) 2002年2月22日(97歳没)所属組織 大日本帝国海軍軍歴 1924年 - 1932年1942年 - 1945年生田 乃木次 日本海軍初撃墜を記録した生田小隊。左から生田、黒岩三空曹、武雄一空生誕 1905年2月3日福井県死没 (2002-02-22) 2002年2月22日(97歳没)所属組織 大日本帝国海軍軍歴 1924年 - 1932年1942年 - 1945年最終階級 海軍少佐除隊後 保育所経営テンプレートを表示 生田 乃木次(いくた のぎじ、1905年(明治38年)2月3日 - 2002年(平成14年)2月22日)は、日本海軍士官・戦闘機操縦士。福井県出身。日本軍のパイロットとして初めて敵機を撃墜した人物である。 1905年(明治38年)2月3日福井県に生まれた。「日露戦争で活躍した乃木将軍に続け」という意味で乃木次と命名された。1924年海軍兵学校52期卒業、1929年19期飛行学生修了。 1931年空母「加賀」に戦闘機隊分隊長として乗組み。1932年1月第一次上海事変勃発に伴い「加賀」は上海沖に出動、飛行隊は公大基地に進出した。2月22日、生田は三式艦上戦闘機の小隊3機を率い、艦攻隊3機とともに出撃、蘇州上空において、アメリカ人義勇兵のロバート・ショートの操縦するボーイング218と交戦し、撃墜[注釈 1]した[1]。これは日本の陸海軍を通じて初の空戦による撃墜であった。この戦果は日本国内で大きく報道され、生田は一躍時代の英雄となった。この時まだ子役であった森光子からもファンレターを受け取っている。 しかしその後、生田は芸者出身の女性との婚姻許可を海軍に届出するが受理されず憤慨。また英雄扱いされた反動で海軍内部の冷やかな扱いや、腰を痛めていた事もあり、東郷平八郎にも諭されるが、1932年12月15日付で予備役に編入され海軍を退官した。退官後は、大西瀧治郎の計らいで逓信省航空局の航空官として航空行政に携わった。1942年再招集されたが、軍籍のまま航空官として務め、終戦時には少佐に進級している[1]。 戦後は公職追放を経て[2]、魚屋となり、その後千葉県船橋市に保育園「社会福祉法人 あけぼの福祉会」を開設。「すべては愛」をモットーに幼児教育に努めた。生田は園生から「お父さま先生」と呼ばれて慕われていた[1]。1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙に改進党公認候補として全国区で出馬、落選した[3]。 2002年2月22日、心不全により死去。この日はロバート・ショート撃墜からちょうど70年目の日であった[4]。告別式には卒園生が多数参列した[4]。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 公式記録は、生田を含む戦闘機3機、艦攻3機による共同撃墜 出典 1 2 3 神立尚紀 (2022年6月28日). “「日本初の敵機撃墜」で時代の寵児となるも、周囲の「嫉妬」に苦しめられ海軍を去った「撃墜王」”. マネー現代. 2022年7月4日閲覧。 ↑ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、21頁。NDLJP:1276156。 ↑ 第3回参議院議員通常選挙全国区 選挙ドットコム 1 2 神立尚紀 (2020年2月22日). “戦争秘話…敵機撃墜第1号となった戦闘機乗り「波瀾万丈過ぎる人生」”. 現代ビジネス. https://gendai.media/articles/-/70470?page=7 参考文献 神立尚紀「生田乃木次」『零戦最後の証言2』光人社、2000年 ISBN 978-4769809654 典拠管理データベース 全般ISNIVIAFWorldCat国立図書館アメリカ日本 Related Articles