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田中屋治兵衛

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田中屋治兵衛(たなかやじへえ、- 1912年(明治45年)2月29日)は、江戸時代の出版業者、版元文求堂。江戸時代末期の安政文久年間から明治時代初頭に松下村塾版の書籍を多く発行したことで知られる京都の書肆[1]幕末明治維新に際して殉難した志士を回想した西村兼文の著作も出版している。

沿革

事業継承、禁門の変で罹災

先代で父親の田中屋治助[2]が、京都東洞院通二條上ルで営んでいた事業を文久年間に継いだが、1864年(元治元年)の禁門の変の兵乱による火災で類焼を被ったために、京都四條通御旅町北側の後寺町通四條上ル西側に移った[2]。20歳の時であった[2]

長州の志士との因縁

これより前のことになるが、長州の志士入江九一勤王の政事に奔走するために上洛しようとしたが、幕府の警戒が嚴重なために大阪より東に上る事ができなかった。そこで一策を案じて書買を装い入桝屋九兵衛との偽名で、京都の書肆田中文求堂の注文に応じて大内版論語を売り渡すために上京すると言い、首尾よくその志を果すことができた。これはあらかじめ治兵衛と密約して、入江九一が携えた注文帳に文求堂の證印を押捺しておき、この帳簿を幕吏に示したので無事通過を許されたからである[2]

このように、以前から文求堂は長州の志士との関係が深く、その店宅は常に志士たちの密議の場となっていた。長州人のうちでも山縣狂介品川弥二郎は最も多く出入し、とくに品川は文求堂に庇護されたことが少なくなく、後年尊攘堂の管理ならびに志士たちの著作の蔵版・製本・刊行が治兵衞に委ねられたのも、そのためである[2]

晩年は東京本鄉湯島四丁目に移り住み、明治45年2月29日に68歳で没した。法諡を釋道信といい西大谷の墓地に葬られ、嗣子慶太郎が後を継ぎ、東京市本郷1丁目でその業を営んだ。因みに彙文堂主人は此の家に業を受けた人である[2]

松下村塾版

こういう因縁があったために、松下村塾の出版物も田中屋治兵衛から製版販売されることになったわけである[1]

出版作品

脚注・参考文献

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