田中忠治
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1957年、中学卒業と同時に上京し、力道山邸に内弟子として住み込む。
その後、豊登の付き人として終始一緒に行動し、1965年末に豊登が日本プロレス社長の座を追われた際も、行動を共にして東京プロレス旗揚げに参加。団体崩壊後も一緒に1968年1月、国際プロレスに入団。
1969年2月、マイク・マリノを破り、IWAミッド・ヘビー級選手権の初代王者となる。1970年に豊登が引退した後も国際プロレスに残留し、同王座防衛を重ねるが1971年3月、海外遠征出発時に同王座を返上。スペイン、ドイツ、フランスや南アフリカを転戦し翌年6月に凱旋帰国。1973年3月5日には山口市にて、ホセ・クィンテロと初の金網デスマッチを行っている[1]。
力道山の薫陶を受けた15年のキャリア(当時の国際プロレスでは最古参)と、欧州で磨きをかけた技術を買われたことなどから、プレーイング・コーチに任命されるが、若手の台頭もあって徐々に表舞台から身を引く形となる。また1975年頃から肝臓疾患に苦しみ、1977年9月、シリーズ開幕前に「体力の限界」を理由として退団を申し入れ、現役引退した。