田付主計

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田付 主計(たつけ かずえ、生没年不詳)は、江戸時代後期の江戸幕府幕臣。田付流砲術家であり、講武所砲術師範役を務めた。通称は彦四郎、諱は直愛、官途は筑後守(または筑前守)である。高200俵を知行し、小栗忠順らの師としても知られる[1][2]

生涯

本国は近江国、生国は武蔵国とされる。父は田付四郎兵衛で、西丸御先手鉄砲方を兼帯して勤仕した人物であり、主計はその三男として生まれた[1]。拝領屋敷は青山若松町および小石川小十人町にあった[1]

天保13年(1842年)に鉄砲役として御役目を仰せ付けられ、同年12月には甥・田付鉄太郎が幼少であったため、その後見人となった[3][1]。天保15年(1844年)12月には布衣を許され、幕府の砲術関係実務を担う立場を固めていった[1]

弘化3年(1846年)3月には、井上左太夫とともに大砲新鋳の功績により賞せられており、当時すでに砲術実務における中心的存在であったことがうかがえる[4]

嘉永3年(1850年)2月29日、幕府は勘定奉行石河政平、目付・本多安英戸川安鎮、鉄砲方・井上左太夫、そして田付主計に対し、江戸内海および浦賀表の見分を命じた。この見分は海防強化を目的とした重要な任務であり、田付が幕府の海防政策に深く関与していたことを示している[5]

安政4年(1857年)9月21日、田付主計は講武所砲術師範役に任ぜられ、和流砲術の正統な指導者として幕府公認の立場を得た[1]。翌安政5年(1858年)12月29日には先手鉄砲頭となり、砲術運用の実務責任者としての地位を確立した[3]

文久3年(1863年)2月には将軍の上洛に際し御供を命じられている[1]。慶応2年(1866年)8月には持小筒組之頭(撤兵頭)となり、翌慶応3年(1867年)7月に勤仕並寄合、慶応4年(1868年)3月には使番を命じられ、同日に目付介となった[3]

田付主計は和流砲術の大家として門弟を多数育成し、その中には後に幕末外交・軍事政策の中枢を担う小栗忠順が含まれていた。田付の砲術思想と実務経験は、小栗の海防・造船構想に大きな影響を与えたと評価されている[2]

脚注

参考文献

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