田付景賢
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天保9年(1838年)4月7日、美濃国大垣に生まれる。大垣藩の砲術師範家である七代田付景昌(左太夫)の子で、安政2年(1855年)に家督を継いだ。安政5年(1858年)には砲術師範となり、藩の軍事技術を担う立場にあった[1]。
慶応4年(1868年)2月、軍事奉行補佐として東山道先鋒隊に属し戊辰戦争に出陣、各地を転戦した。同年8月には会津進撃に加わり、戦闘で負傷して後送されている。その後、藩および新政府側で軍事奉行を務め、明治政府成立後も軍務に従事した[2]。
明治9年(1876年)には広島鎮台幕僚参謀となり、萩の乱の平定に参加。翌明治10年(1877年)の西南戦争では第三旅団参謀として出征し、各戦線を転戦した。戦後は明治12年に山口・島根・岡山三県下の駐在所へ派遣され、明治14年に東京へ転じている[2]。
明治21年(1888年)3月、依願退職。養子の田付七太は後にブラジル公使を務めた。また、医師の江馬賎男は本郷新花町から田付邸内の貸家に住んでいた[2]。
明治30年(1897年)10月29日死去。享年60[3]。同日、正六位に叙せられる。