田代三喜
室町・戦国時代の日本の医師
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略歴
出生と修学
三喜は、源平期の武将田代信綱の八世の孫とされる田代兼綱の子として、武蔵国越生に生まれたと伝えられる[4]。田代氏は伊豆国の豪族であったが、兼綱の代に武蔵国へ移住していたという[7]。越生町大字古池の田代を生地とする伝承もある[8]。
渡明・帰国年代をめぐる異説
三喜は長享元年(1487年)に明へ渡り、僧医月湖に師事して李東垣・朱丹渓の学説に連なる金元医学を学び、明応7年(1498年)に帰国したという[4][8][注釈 2]。
これに対し、宮本義己は遣明船の派遣年度などを検討し、導道の渡明を永正3年(1506年)、帰国を大永4年(1524年)とする年譜を提示している[5]。この説に従えば、従来広く流布してきた「1487年渡明・1498年帰国」という年譜は見直しを要する。
古河公方との関係
宗長『東路の津登』の永正6年(1509年)条には、古河の「江春庵なる名医」がみえる。年末には、宇都宮で宗長を診療した医師についても「江春庵」と記されている[1]。
三喜は永正6年に古河公方足利政氏に招かれて下総国古河へ移り、その侍医となったとされる[8]。永正6年当時の古河公方は政氏であり、足利成氏ではない。成氏は明応6年(1497年)に没しているため、永正6年の招請を成氏に帰すことはできない[1]。
木村専太郎の略伝には、三喜が1498年に帰国した後に成氏へ招聘され、成氏の没後に政氏へ仕えたとある[10]。しかし、この年譜は成氏の没年および永正6年の「江春庵」記事と整合しない[1]。
「江春庵」が田代三喜を指すかどうか、またそれが人名・号・居所のいずれであるかをめぐっても議論がある[1][5]。『円福寺記録』には、永正12年(1515年)に足利政氏が今里の香取社へ参詣した際、これを迎えた人物として「田代三喜斎」がみえる。また、足利晴氏・足利義氏の家臣にも「三喜斎」の名がみえる。医師三喜、武将三喜斎、導道の関係は、なお明らかでない[1]。
曲直瀬道三との関係
三喜は曲直瀬道三の師として広く知られる[11]。道三は青年期に足利学校で学んだとされる[11]。道三は享禄4年(1531年)に赤見で三喜に会い、その門人となって医学を学んだとされる[要出典]。
道三は、三喜から学んだとされる医学を京都で展開し、啓迪院を開いて医学教育を行ったとされる[12]。
ただし、道三の師として史料に現れるのは、当流医術の相伝書に署名する「範翁導道」と、「江春之系図」などにみえる「田代三喜」である[注釈 3]。したがって、道三と三喜・導道との師弟関係の具体像は、なお明らかでない。
晩年・遺跡
三喜は古河で還俗して妻帯し、のちに武蔵国へ戻って関東各地を往来しながら診療したとされる[要出典]。武蔵国への帰還を大永4年(1524年)とする略伝もある[要出典]が、この年次は導道の帰国を同年とする宮本の年譜とは一致しない[5]。
古河市長谷町の永仙院跡には、「医聖田代三喜翁供養碑」が建つ。「三喜松」は、そこに三喜の墓印の松があったという伝承に由来する[12][13]。
近隣の一向寺には三喜の木像が伝わる。旧像は明治34年(1901年)の火災で焼失し、現在の像はその後に再造されたものである[2][11]。