薩摩藩士として砲術・硝石製造・造船技術に通じ、幕末には実学的技術官僚として活動した。造船は中浜万次郎から学んだと言う。明治以降は博物学・農学に重心を移し、採薬・鉱物採集・植物栽培・製糖など幅広い分野で著作と実践を残した人物である。
嘉永6年5月には、琉球王府から具志川親方、勝連親方の官吏二名がお目付け役として薩摩に派遣され昇平丸建造に携わっており、田原は工事の監督を行なった。
安政5年(1858年)、宇和島藩に招かれて領内を巡察し、『宇和島領内採薬紀行』『伊予宇和島鉱物採集』を著したほか、『甘蔗弁義』『果物糖蔵篇』(明治9年刊)など、農業・製糖に関する実用書を多数残している。また田原陶猗と大迫源七が島津斉彬の命により長崎から持ち帰った椰子木について、川上式部が琉球へ移植し結実したことを自身の書簡で記している。
硝石製造については『草制作硝録』を著し、幕末期の火薬技術を知る重要史料となっている。陶猗は明治期に用いた号であり、幕末までは主として明章・直助を名乗った。
明治5年(1872年)には兵部省六等出仕となり、その後、明治11年(1878年)8月には岐阜県厚見郡今泉町に設置された植物試験場および農事講習所の教長に就任し、地域の農業振興に寄与した。
鹿児島では博物学者として後進に影響を与え、昆虫学者・名和靖は、昆虫学を志した契機を「鹿児島春日町の田原の感化によるもの」と回想している。
明治29年(1896年)12月1日、鹿児島にて死去。享年84。墓所は旧興国寺墓地にある。