田山利三郎
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宮城県柴田郡村田町生まれ。父は村田町長、宮城県会議員、城南軌道社長等を歴任した田山孫八。1916年、宮城県師範学校を卒業。1921年、東京高等師範学校を卒業。札幌中学校の教員となり、教え子に佐々保雄などがいた。その後は師範学校などでの訓導を勤めた。
1924年、東北帝国大学理学科地質学古生物学教室にすすみ、矢部長克のもとで学び、1927年、同教室を卒業した。卒業後東北大学で働き、1937年に南洋庁技師兼東北大学助教授、1944年依願免兼官、1945年東北大学講師、1949年に同大学教授となった。1947年に運輸省技官、1948年には海上保安庁水路部測量課長となった。
1952年、海上保安庁の測量船「第五海洋丸」による伊豆諸島明神礁の噴火調査中に行方不明となった(第五海洋丸の遭難)。噴火に遭遇し死亡したと見られる[2]。
1953年(昭和28年)1月22日には、第五海洋丸の遭難で殉職した31名全員を叙勲したことを総理府賞勲部が発表しており、田山には勲四等旭日小綬章が授与されている[3]。
妻は日下部四郎太の長女・薫。