1904年(明治37年)に岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市成羽町吹屋)で生まれる。その後は地元に近い旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学し、1922年(大正11年)に卒業[3]。旧制第六高等学校を経て[3]、1925年(大正14年)京都帝国大学へ入学[1]。同大学工学部電気工学科を1928年(昭和3年)に卒業した。卒業論文は「電光と避雷」であり、これが田村の将来を決めた[2]。
田村は、京大卒業後、発電所か鉄道関係への就職を考えていたが、同大学理学部物理学教室から大気電気の研究助手の話があり、長谷川万吉教授の研究室に入った。田村が学生の頃は、未だ強電分野しかなく、弱電分野の電子工学はなかった[4]。長谷川教授の指導の下で地球電磁気学を研究した。1932年から1933年にかけて、京大の阿蘇火山研究所で行われた第2回国際極年観測に協力し、地磁気観測とその解析を担当した。その後、回転集電器を改良し、雷雲の電気的特性に関する観測を行い、1937年から1940年には別府で継続的に観測を続けた。これらの成果をもとに、1940年に「雷雲内の電気分布について」という論文を発表し、1943年にはその補遺として「雷雲の電気について」を発表した。これにより、1945年に理学博士の学位を取得。彼の研究の特徴は、雷雲内の電荷分布が雷雲の発生から老年期にかけて変化し、初期には上負下正、最盛期には正負正、老年期には上正下負となることを発見した点である[2]。
大戦後、田村は1955年から1960年にかけて、京都市を中心に10地点で回転集電器を使い、夏の雷雲と冬のしぐれ雲の電気の同時観測を行い、解析した。この業績は重要であり、博士の研究方法は多くの観測結果を実証的に解析し、普遍的な事実を抽出する点に特徴があった。1966年には、気象研究ノートに「雷雲の電気的構造」を寄稿し、成果を発表した。また、1954年、1958年、1963年には国際大気電気会議に招待され、研究発表を行った。1968年には、京都大学教授を退官した。同年、日本大気電気学会を設立し、国際大気電気学会の日本委員長としても活躍した。定年退官後は、京都産業大学で12年間教授として教育に尽力した。1980年に退職した[2]。