田畑麦彦
日本の小説家 (1928-2008)
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経歴
東京急行電鉄社長を務めた[2]篠原三千郎の二男として生まれる[3]。妹の桂子は渥美昭夫の妻。中学校から慶應義塾に通う。毎日新聞社、東映映画に勤務。
1953年『三田文学』に「夜の窓」を発表、『文藝首都』同人として小説を書く。1956年、同人誌仲間であった佐藤愛子と結婚。1962年「嬰ヘ短調」で文藝賞受賞。同年より妻愛子とともに産業教育教材販売会社「日本ソノサービスセンター」の設立、経営に参画する。1964年より日本ソノフィルムやエスプリ企画の代表取締役社長を務めるが、事業の失敗により離婚。佐藤はその経緯を「戦いすんで日が暮れて」に書いて直木賞を受賞した。田畑自身は芥川賞や直木賞の候補になることもなかった。1969年から1985年まで『文藝』で同人雑誌評を続け、その後は『公評』に評論を書いていた。
著書は『小鳥が歌をうたつている』(南北社、1965年)『祭壇』(新版・風濤社 1969年)。
経営する会社が倒産する寸前の時期に、同人誌仲間の北杜夫から200万円を借りて踏み倒したこともある[4]。
佐藤愛子と離婚した後も年1回ほどは娘の顔を見に佐藤家を訪れ、3人で食事をすることがあった[5]。小児麻痺で左右の足の長さが異なり、子供の頃から歩き方には癖があったが、晩年はリウマチで車いすになり、2005年頃から佐藤家を訪れることもなくなったという[5]。
2008年6月6日、間質性肺炎のため80歳で死去。佐藤愛子は田畑をモデルに『晩鐘』(2014年)を描いた。佐藤はそれまでもたびたび田畑のことを書いてきたが、それは「私の吐物のようなもの」だったが、本書は初めて田畑への理解を深めたいという気持ちから書いたと述べている[6]。
家族
- 父・篠原三千郎(1886-1953) ‐ 服部時計店重役、東急電鉄社長。岐阜県東野村村長・鈴木銭次郎の二男として生まれ、7歳で篠原国治の養子となる[7]。1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、逓信省に入省[7]。その後、1915年(4月)に服部時計店に入社し、服部金太郎の五女・晴子(1919年死別)と結婚し、1917年(大正6年)に服部時計店が株式会社となると取締役に就任した[7]。1921年(大正10年)に田園都市株式会社の取締役に就任したのち、1922年(大正11年)目黒蒲田電鉄取締役、1939年(昭和14年)東京横浜電鉄専務取締役となり、1944年(昭和19年)通産大臣となった五島慶太の代わりに東急電鉄の社長を1年ほど務めた[7]。その他、東京光学機械、相模鉄道、東海道乗合自動車各社長も務めた[7][8][9]
- 母・ナツ(夏子、1896-) ‐ 三千郎の後妻(ナツも再婚)。北海道の松尾留太郞の二女。父の留太郎は札幌農学校予科中退後、北海道庁雇の事業手となり、同技手を経て土木請負業に従事、金融業のほか、札幌区会議員も務めた。ナツの次妹・キクの入婿の松尾義夫は第23師団 (日本軍)の獣医部長、末妹・愛子の夫・勝は五十嵐秀助の外孫。[10][11]
- 前妻・佐藤愛子 ‐ 一女(杉山響子)を儲けるも夫婦で始めた事業が失敗し、離婚。田畑が作った負債から逃れるための一時的な偽装離婚のつもりだったが、直後に知らぬ間に田畑が再婚。
- 後妻 ‐ 銀座の飲食店勤務
- 異母姉・逸子 ‐ 加藤陽三の妻[12]
- 実妹・桂子 ‐ 渥美昭夫の妻[9]