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田頵

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田 頵(でん いん、858年 - 903年)は、唐末の軍人。字は徳臣。本貫は廬州合肥県[1]。

経歴

儒教経典の概略に通じ、沈着果断で大志を抱いた。楊行密と同郷で、義兄弟の契りを交わした。廬州の募兵に応じて、主将に昇格した。楊行密が廬州を占拠するにあたって、田頵の計謀によるところが多大であった。宣州に趙鍠を攻めると、趙鍠が東渓に出て、急流に乗じて逃れたため、騎兵で追いつくことはできなかった。田頵が軽い小舟に乗って追って、趙鍠を捕らえた。田頵は楊行密の推薦により馬歩軍都虞候となった[1]。

秦宗権から離反した将の安仁義が淮南に亡命してくると、楊行密は安仁義に騎兵を率いさせて、田頵とともに常州を攻撃し、刺史の杜棱を殺した。銭鏐が潤州に駐屯したが、一晩で敗走させた。孫儒が南方を経略し、田頵らは丹陽に駐屯した。孫儒が揚州を焼き、広徳に城壁を築くと、田頵は孫儒と戦って敗走した。楊行密は怒って、田頵の兵を奪った。ある人が田頵を任用せずに孫儒と戦うことはできないと諫めた。そこで楊行密は田頵を将軍に復帰させた。孫儒は安仁義に手紙を送って誼を通じ、楊行密を疑わせようとしたが、楊行密はますます安仁義を厚遇した。田頵と安仁義の功により孫儒を捕らえることができた。乾寧2年(895年)、田頵は宣州寧国軍節度使に任じられ、検校太保・同中書門下平章事に累進した。天復2年(902年)、田頵は馮弘鐸を平定して、揚州に赴くと、池州と歙州を寧国軍の属州にしたいと求めたが、楊行密に聞き入れられず、楊行密を恨むようになった[1]。

銭鏐の部将の徐綰が反乱を起こし、銭鏐が杭州に入って徐綰を駆逐すると、徐綰は霊隠山に駐屯して田頵を迎えた。田頵は杭州を包囲した。先立って楊行密は娘を銭鏐の子にとつがせる計画を持っていた。銭鏐は子を人質とする代わりに田頵を召還させるよう求めた。楊行密は田頵に強く帰還を求めたが、田頵は聞き入れなかった。田頵は銭鏐の子の銭元瓘を人質に出すよう求め、徐綰とともに撤退した。田頵は楊行密との絶縁を決意した。天復3年(903年)、幕僚の杜荀鶴を汴州に派遣して朱全忠と誼を通じた。楊行密が康儒を廬州刺史に任じて離間すると、田頵は康儒を一族皆殺しにした[2]。

田頵は安仁義とともに昇州を攻め、刺史の李神福の妻子を捕らえた。李神福はちょうど劉存とともに鄂州を攻撃していたが、楊行密がかれを召還すると、李神福は妻子を顧みず田頵を討つことを誓った。李神福は田頵の派遣した李皐を斬り、田頵の兵を曷山で破った。田頵の将の王壇らが水軍で李神福の後をつけ、李神福の軍を吉陽磯で破り、さらに皖口で破った。李神福は水際の堅壁にこもって出なくなり、楊行密に田頵の退路を絶つよう求めた[3]。

楊行密の将の台濛が騎兵を率いて長江を渡り、王壇と広徳で戦って、王壇を敗走させた。田頵は李神福と戦わずして苦しめられ、母の病といつわって軍を帰して蕪湖にいたった。王壇の敗北を聞くと、精兵2万を残して郭行琮のもとに逃れた。台濛が少数の兵を連れてやってきたため、田頵はこれを軽視して、黄池で戦い、伏兵に遭って敗れた。蕪湖の兵を呼び寄せようとしたが、入城させられなかった。郭行琮と王壇がみな楊行密に帰順したので、田頵は怒り、決死の士数百を率いて「爪牙都」と呼び、自ら戦闘の渦中に身を置いた。台濛が軍を退いて誘い出すと、田頵の軍を壊滅させた。田頵は城に逃れようとして、橋を落とされ、乱兵に殺された。享年は46[4]。

脚注

伝記資料

参考文献

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