男女別学
性別で分けて別々の場所で学ぶこと
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概要


ある国や社会、ある時代の教育制度を論じる際など、文脈によっては単に使用する施設が異なるのみならず、男女で学校制度や教育課程が異なっており[注 1]、女子の教育機会や教育内容に不平等がある状態[注 2]を意味する。この場合、「男女別学制度」「男女別学体制」といった用語も用いられる。近代学校教育の歴史上、初等教育段階では早い段階から多くの国で男女共学の方針がとられた一方[6][4]、中等教育以上で男女共学が導入されるのには時間がかかった。大学ではじめて男女共学が実現するのは、19世紀のアメリカ合衆国である(1833年創設のオーバリン大学[5])。
男女を別の場所で教育することの背景としては、宗教的な思想[3]や道徳観[3][6]があるが(現在でもカトリックやイスラム教の国では男女別学の伝統が強いとされる[3][6])、女性の社会的な役割に対する考え方(ジェンダー[1]、性別役割分業観[7])に基づいて、単に施設を分けるだけではなく教育課程に違いを設けることもある。こうした考え方は、女子の通う学校を増やして女子教育の普及に貢献した面もあるが、一方で女子教育の内容や水準に限定をもたらしたという面もある[7]。
男女別学制度は、女子学生の排除[1]や、教育機会の不平等[1]を意味する女性差別のひとつとして、女性の社会的地位向上を求める運動(女性解放運動、フェミニズム)から教育機会の平等が求められ[5]、いわゆる主要国では男女の平等な教育機会が制度面では保障されるようになった[6]。一方で、制度的な男女共学では必ずしも教育機会の均等が実現できない(社会一般のジェンダーや性別役割分業観が教室に持ち込まれる[1][7])として、フェミニズムの立場から男女別学(男女が別の学校で学ぶこと)について積極的に捉える主張も出されている[1]。また、近年においては、トランス女性の学生を受け入れる女子大学が増えている[9][10]。
日本
近代
日本では、明治時代に学校制度が整備される中で、初等教育(小学校)からの男女別学が原則とされた。
1879年(明治12年)に出された教育令は「凡学校ニ於テハ男女教場ヲ同クスルヲ得ス 但小学校ニ於テハ男女教場ヲ同クスルモ妨ケナシ」(第42条)と定め、中等教育以上では男女別学を原則と定めた[11]。これにより、女子の中学校への入学は認められなくなり、女子中等教育は女学校で行われることとなった[11]。1891年(明治24年)の文部省令第12号「学級編制等ニ関スル規則」は、小学校で学年の女子児童が学級編成に十分であれば、男女別学級とするように定めた(ただし尋常小学校1学年・2学年は例外とした)[6]。
中等教育以上では男女別学の制度が維持され、帝国大学への進学を主とする旧制中学校、旧制高等学校は男子のみの入学が認められたため、帝国大学への女子の進学はほとんど認められなかった[8][6](1913年に東北帝国大学が3人の入学を認めたのが最初。女子大生の日参照)。女子に対する中等教育機関としては高等女学校などが規定されたが、「良妻賢母主義」と言われるように性別役割分業観に根差した教育方針が採られており[7]、高等女学校と旧制中学校では修業年限にも差異があった[8]。戦前の日本では大学は男子のみが通うという前提があったので、あえて男子大学は作られなかった[12]。
第二次世界大戦後
第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による占領期、男女別学を原則としていた日本の教育制度は男女共学を原則とするものに改められた(学制改革参照)。
教育改革指令を受ける形で、1945年12月に「女子教育刷新要綱」が閣議了解され、女子大学の創設、大学における男女共学制、中等学校における男女間の教科の平準化などの実施が決定された[13]。これにより、1946年より従来女子の進学に制限を設けていた高等教育機関に女子が入学するようになった[13]。1946年に出された第一次教育使節団報告書は公教育を男女別学から男女共学に移行するよう提言。1947年に施行された教育基本法は「教育上男女の共学は、認められなければならない」とした[8]。戦前からあった大学は共学化し、女子大学が新設されたが、男子大学は新設されていない[12]。
1947年3月公布の学校教育法により、1948年より実施される公立新制高等学校の設置に関する「高校三原則」のひとつとして「男女共学」が挙げられた[13][14]。ただし、1947年に文部省は通知・通達として「新学校制度実施準備の案内」「新制高等学校実施の手引」を出し、男女の教育機会均等という根本原則を踏まえた上で、地域の状況を尊重して必ずしも「男女共学」にしなくてもよいという方針を示しており、画一的な指導は行わなかった[14]。占領軍の地方当局の担当者によって方針に差異があったため、男女別の旧制中等学校を統廃合して男女共学が徹底された地域もあれば、旧制中等学校を引き継いで男女別の新制高等学校が設立された地域もあった[14][13]。また私立学校は三原則の制約外にあったため、男女別学校として移行したものが少なくない[13]。GHQによる共学化は日本列島の南から進められたが、北関東に到達する前に朝鮮戦争が勃発し手が回らなくなったことで、埼玉県以北ではナンバースクールのような旧制中学校から続く男女別学校が多く残った[15]。
「男女共学」が原則となった戦後も、家庭科などでは男女で異なるカリキュラムが設けられた[6](「男女別修」とも呼ばれる)。性別役割分業観によるものとしてカリキュラムを男女が共に学ぶように改めようという運動が行われるなどした結果、1989年の学習指導要領で家庭科の男女共修が示された[6](男女共修参照)。
現在
- 小学校から高等学校まで男子校・女子校ともに存在している[注 3]。
- 高等専門学校は2000年に男子校であった近畿大学工業高等専門学校(旧熊野高専)が共学となり[16]、全ての高専が共学となった。
- 北関東の名門公立高等学校[15]や、首都圏と中京圏・阪神間の名門私立中学校・高等学校の多くが男女別学であるが、近年は少子化の影響や、性差で分別する事が時代にそぐわなくなりつつある背景もあり、共学化する学校が増えている。
- 男子・女子とも募集するが、男子と女子とでは校舎や教室などが分けられている学校があり、「男女併学」と称されることがある[17]。別学と共学の両方のメリットが得られるとされる[17]。
- 2008年度に東洋食品工業短期大学が女子学生の募集を開始したことによって、日本から男子大学は消滅した。
- 私学事業団の調査によると、私立大学を運営する全国の662の学校法人のうち、207法人が少子化などの影響で「経営困難な状態」であり、男女共学化や閉学を進める女子校は増加傾向にある。ノートルダム女学院は2026年度から大学の学生募集を停止し、小中高校は同じカトリック系のヴィアトール学園に事業譲渡した。武庫川女子大学は、2027年4月から共学となり、名前も「武庫川大学」に変更となる予定。金城学院大学も学校法人名古屋学院大学の傘下に入り、2029年をめどに共学化を検討している 。
一方で京都女子大学や大阪女学院大学・大阪樟蔭女子大学等の様に,敢えて「別学維持宣言」を行う大学も存在する。 [18]。活水女子大学は2025年度より男子学生の受け入れを開始したが、大学名はそのままである[19]。