男沢抱一 From Wikipedia, the free encyclopedia 男沢 抱一(おとこざわ ほういち、1836年(天保7年) - 1896年(明治29年)9月25日)は、江戸時代の仙台藩士で、明治時代の教育者・歴史学者である。諱は真成(まさなり)[1]。江戸時代には通称を又左衛門といった[2]。1836年(天保7年)生、1896年(明治29年)9月25日没[3]。 仙台藩の藩校である養賢堂に勤め、助教から指南役に進んだ[4]。戊辰戦争では朝廷に従うべきという正義派の一人であったという[5]。 明治に入って養賢堂の改革にあたり、1869年(明治2年)養賢堂を知学局と改めて勾当台通りに復帰させ、役職名も改めて、自らは教授役になった[6][1]。1870年(明治3年)8月、藩の官制改革により、少属、学校庶務係、教授となった[1]。 明治5年(1872年)6月8日に、第一大区小七区小学校の読書教授に任じられた。この学校は宮城県が中央政府に先んじて設置した義務教育の小学校だったが、学制の発布により10月に廃止になり、男沢は免職となった[7]。 1873年(明治6年)、新設の宮城師範学校に生徒として入学し、翌年卒業した[8]。以後、仙台の立町小学校の訓導として生徒に教えつつ、小学校教員伝習学校(後の仙台師範学校)の教員として他の小学校教員に教えた[9][10]。 1881年(明治14年)、1882年(明治15年)に『瑞穂蒙求』を著した[11]。中国に古くからあり、日本でも使われた初等教科書である『蒙求』から題名をとった。 1884年(明治17年)に、戊辰戦争に関わった仙台藩士からの聞き取りをもとに、漢文の『反正録』を出版した[9]。勤王の意をもっていた仙台藩が奥羽越列藩同盟に加わって戦った経緯を記して弁護するのが主文で、ほかに、関係者が見聞きした様々な出来事を付け加えた[12]。『反正録』出版時の住所は仙台だが、翌1885年(明治18年)には東京で修史館御用係を務めていた[13]。 1888年(明治21年)には内閣修史局に所属していた[9]。 1896年(明治29年)9月25日、61歳で亡くなり、東京の青山霊園に葬られた[9]。 脚注 1 2 3 『仙台市史』通史編6(近代1)、326頁。 ↑ 男沢抱一『反正録』、16頁。 ↑ 宇野量介『明治初年の宮城教育』、29頁。生年は没年齢から計算。 ↑ 宇野量介『明治初年の宮城教育』、4頁、28頁。 ↑ 男沢抱一『反正録』、7頁。 ↑ 宇野量介『明治初年の宮城教育』、4頁。 ↑ 宇野量介『明治初年の宮城教育』、20頁。 ↑ 宇野量介『明治初年の宮城教育』、90頁、94頁。 1 2 3 4 宇野量介『明治初年の宮城教育』、28 - 29頁。 ↑ 『宮城県史』、11巻259頁。 ↑ 宇野量介『明治初年の宮城教育』、29頁。刊行年は国立国会図書館、宮城県図書館の検索結果による。 ↑ 男沢抱一『反正録』。 ↑ 『公文録』明治18年、官吏雑件8月第1。「修史館御用係男沢抱一宮城県下ヘ出発ノ件」。 参考文献 ウィキメディア・コモンズには、反正録に関連するメディアがあります。 『公文録』。国立公文書館デジタルアーカイブ。 男沢抱一『瑞穂蒙求』、金沢出版、1881年(明治14年)、2冊本。 男沢抱一『反正録』、知誘活版印刷、1884年(明治17年)。 宇野量介『明治初年の宮城教育』、宝文堂、1973年。 仙台市史編さん委員会『仙台市史』通史編6(近代1)、仙台市、2008年。 宮城県史編纂委員会『宮城県史』、11巻(教育)、宮城県史刊行会、1959年。復刻版、ぎょうせい、1987年。 Related Articles