宮城師範学校 (明治)
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名称
官立宮城師範学校は、公文書の中では単に宮城師範学校と記すことが多いが、第七大学区宮城師範学校と記すものもあり[1]、学校印にもそう刻んだ[2]。文部省の直接の管下にあり[3]、それを当時は国立といわず官立と称した。後に、後身の学校を県立宮城師範学校、官立のほうを官立宮城師範学校と呼んで区別した[4]。
開校
日本では1872年(明治5年)に学制を発布して全国に義務教育の小学校を設けることにした。学制は師範学校の卒業生を小学校の教員にあてるとしたが、師範学校がない段階では、旧来の寺子屋師匠などを仮教員に採用して開校した。政府はまず東京に「師範学校」を作って全国から生徒を入れ、翌1873年(明治6年)に大阪と宮城に師範学校を設けた。東京の師範学校は、これにあわせて東京師範学校と改称した。さらに翌年に長崎、広島、愛知、新潟と、七つの大学区に所在の府県名を冠した師範学校が設けられた。
宮城師範学校は、1873年(明治6年)8月18日に発足した。11月に入学試験を実施し、11月17日に授業を始めた[5]。最初の生徒は、1県ごとに5人、計75人を募集し、入学試験に合格して入校した者が46人であった[5]。そのうち6人が、12月に「発音正しからず」という理由で退校を命じられた[5]。
所在地
所在地は宮城県庁そばで、発足から少し先立つ10月から、師範学校のための新校舎の建築がはじまった[6]。白いペンキを塗った洋風の建物で、翌1874年(明治7年)5月15日に落成開校式を挙行して、一般の来訪者に校舎を開放し、模擬授業を見せた[6]。
住所は当時の大区小区制でいうと宮城県第1大区小3区勾当台通140番である[7]。1876年(明治9年)改正で小8区、1876年(明治9年)の郡区町村編制法で仙台区。市制は1911年なので、学校の存続期間中に仙台市はない。
学区
当初の学区は第6大学区と第7大学区で、現代の地理にあてはめれば、東北地方に新潟県と長野県を加えた範囲である[5]。以下の16県だが、このころ府県の統合・改称が頻繁で、変化がある。
このうち第6大学区は、1874年(明治7年)に新潟師範学校ができると宮城師範学校の学区から外れた。
教員
東京の師範学校の教師から転じた大槻文彦が宮城師範学校御用掛として準備を取り仕切り、11月8日に初代の校長に任命された[5]。文彦はこのとき27歳。教官中には東京の師範学校を卒業したばかりの20代の青年が3名いた[9]。他の発足当時の官員は4人の職員と、5人の教官、営繕1人であった[10]。年内にさらに4人と、御雇教師1人、雇医1人が採用された[11]。あわせて17人である。
1876年(明治9年)6月、明治天皇の東北巡幸の時には、校長のほか、五等教諭より三等訓導まで4人、雇4人、書記3人、寄宿舎雑務掛2人、門衛2人、医員1人で、計17人がいた[12]。
関連学校
師範学校の本来の任務は新規に教員を養成することで、当面は仮教員に新しい教授法を身に着けさせることであったが、当初の規模ではその需要も満たすことはできなかった。卒業生が他の教員に伝える形をとり、その教場として各地に設けられたのが伝習学校である。宮城師範学校の卒業生は、仮がとれた正規の教員として小学校に着任するとともに、伝習学校で他の教員に教えた。師範学校でも伝習学校でも、課程を修了した者は、仮教員から正規の教員になって昇給した。伝習学校の中には発展して県の師範学校になるものがあり、仙台師範学校(宮城県)、磐井師範学校(磐井県)などがその例である。
新式の教育を実践し、師範学校生徒に示すために、1874年(明治7年)に付属小学校を置いた[13]。現在の宮城教育大学附属小学校の前身である。
廃止
官立の師範学校は1877年(明治10年)の西南戦争による財政難を理由に東京を除いて廃止することになり、宮城師範学校も1878年(明治11年)2月14日に廃止になった。
県立の宮城師範学校
仙台師範学校への継承
1878年(明治11年)2月に宮城師範学校がなくなると、宮城県の師範学校は県立の仙台師範学校だけになった。しかしこの時既に宮城師範学校を宮城県に引き継がせることが決まっており、解雇された教員の多くは3月に仙台師範学校に採用された[14]。仙台師範学校の教員で、小学校教員を兼ねていた者は兼任を解かれた[15]。宮城師範学校の付属小学校は、3月に仙台師範学校付属になった。仙台師範学校は、宮城師範学校の建物と備品をすべて譲り受けて移転した。宮城師範学校最後の校長吉川泰二郎は、6月3日に仙台師範学校の校長になった[16]。以上のように、宮城師範を実質的に残しつつ、仙台師範が外記丁から引っ越してくる形で合同を果たした。
吉川泰二郎校長は、1878年(明治11年)に願いを出して退職した。移行時の校長事務だった箕浦勝人がふたたび校長事務になったがこれも辞め、県職員の首藤陸三が急遽校長となり、3月のうちに和久正辰を新しい校長に迎えた。
改称と制度
翌1879年(明治12年)6月26日に、仙台師範学校は宮城師範学校と改称した[17]。
1881年(明治14年)には、教育令の改正にあわせ、初等師範科、中等師範科、高等師範科に分け、年限をそれぞれ1年、2年6か月、4年とした[18]。これは当時の小学校の等級に対応しており、たとえば初等師範科の卒業生は小学校初等科でしか教えられなかった。