畠山義豊

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畠山 義豊(はたけやま よしとよ)は、戦国時代初期の大名武将室町幕府河内守護。畠山氏の一派である総州家当主で、畠山義就の次男で修羅の弟、義英の父。

時代 戦国時代前期
生誕 文明元年(1469年
改名 基家(初名)→義豊
概要 凡例畠山 義豊 / 畠山 基家, 時代 ...
 
畠山 義豊 / 畠山 基家
時代 戦国時代前期
生誕 文明元年(1469年
死没 明応8年1月30日1499年3月20日
改名 基家(初名)→義豊
別名 次郎(通称
墓所 成田山大阪別院明王院大阪府寝屋川市
官位 弾正少弼
幕府 室町幕府 河内守護
氏族 畠山氏
父母 父:畠山義就、母:不明
兄弟 修羅義豊
義英
養子:天竺某の娘
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初名は、基家(もといえ)[1]。通称は次郎、官位は弾正少弼

生涯

文明15年(1483年)、兄の修羅が早逝したため、後継者に定められた。

文明17年(1485年)、元服し、基家と名乗る。

延徳2年(1490年)12月12日、父の病没により、跡を継ぐ。

父の長年の政敵である畠山政長(尾州家)が一時管領を務めるなど、室町幕府の中枢にいたため、明応2年(1493年)2月に基家は10代将軍足利義材と政長を主力とした幕府軍の追討を受け、河内の高屋城(支城の誉田城とも[2])に籠城した[3]。だが、遠征前の明応元年(1492年)正月に基家は義材・政長と対立していた管領の細川政元と接触しており[4]、基家の重臣が河内征伐の直前、「将軍が攻めてきてもこちらは何ら問題はない。なぜならば、伊勢貞宗以下、大名らとはすでに話がついているからだ」と豪語していたと記録されている(『大乗院寺社雑事記』明応2年2月23日条)[3][5]

4月、政元によるクーデターが京都で勃発し、足利義澄が擁立された(明応の政変)。その後、政元は軍勢を送り、義材を捕らえ、政長を自刃に追い込んだ[6][7][8][9]

5月、基家は河内から上洛し、幕府に出仕した[10][11]。そして、義澄(当時は義遐)から「義」の偏諱を賜り、義豊と名乗った[10]

これにより、義豊は政元の後ろ盾のもと、畠山家の家督と河内の守護職を一時的に手に入れた[11]。だが、政長の子・畠山尚順紀伊に逃れて反撃の機会を窺っていたため、7月に義豊は河内へ下向した[11]。以後、双方共に小競り合いを繰り返した。

明応6年(1497年)、家臣の遊佐氏誉田氏が内紛を起こし、9月にこれに乗じた尚順が紀伊で挙兵、10月に河内の高屋城を尚順に落とされ、山城へ逃亡した。

11月、大和国人で与党の越智家栄家令父子と古市澄胤が、尚順に呼応した筒井順賢十市遠治らに敗れて没落、河内・大和を尚順に奪われ追い詰められていった。

義豊は河内を失った後も政元の支持のもと、尚順と戦ったが、劣勢を覆せず、明応8年(1499年)1月30日に河内十七箇所で戦死した。

息子の義英は逃亡、勢いに乗った尚順は近江に進軍した義材及び南山城に駐屯した大和国人衆と呼応して政元を挟み撃ちにしたが、政元の反撃に遭い各個撃破され紀伊へ敗走した。義英は河内へ戻れたが、尚順は以後も反乱を起こし、総州家と尾州家の対立は継続していった[12][13][14][15]

系譜

墓所

墓所は現在の大阪府寝屋川市枚方市の境に築かれたが改葬され、寝屋川市の成田山大阪別院明王院に祀られている[17]

偏諱を与えた人物

  • 遊佐

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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