京都の歴史
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京都の歴史(きょうとのれきし)においては、現在の京都府京都市にあたる地域の歴史について概説する。京都は延暦13年(794年)の平安京遷都以来、明治2年(1869年)の東京奠都に至るまで朝廷の本拠地であり、日本の政治・経済の中心として機能した。
京都市域をふくむ京都盆地一帯においては、旧石器・縄文・弥生各期の遺物・遺構が確認されている。古墳時代にはヤマト王権によって県主・屯倉が設置された。古代の京都においては秦氏をはじめとする渡来系氏族が勢力を広げており、古墳、のちには寺院などが築かれた。桓武天皇は延暦3年(784年)に当時の宮都・平城京を離れ、京都盆地に長岡京を造営するも、これをすぐに破却し、延暦13年(794年)に平安京へと遷都する。平安京はその他の都城と同様、条坊制にもとづき計画されたが、造営自体が途中で中止されたこと、右京が低湿地であったことなどにより、市街の発展は左京中心の不均衡なものとなった。10世紀以降には里内裏の常態化や道路・条坊の形骸化が進み、辻子や町屋の発達、郊外の都市区画形成などを通じて中世京都への基盤が形成された。
鎌倉時代には一時、政治の中心地が鎌倉に移るも、京都は朝廷・寺社の所在地として依然として鎌倉をしのぐ都市として発展した。承久の乱後には、鎌倉幕府によって京都に六波羅探題が置かれた。鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は京都に政治的中心を戻し、続く足利尊氏による室町幕府もこれに倣った。室町幕府が左京北部の上京に拠点を置いたことにより、京都は以来政治的中心の上京・経済的中心の下京に分かれて発展した。室町時代後期には応仁の乱の影響もあり、両地区は惣構を築いて都市を防衛した。また、この時期には住民の自治組織である町組が形成された。
室町幕府滅亡後は織田信長が、信長没後は豊臣秀吉が京都を支配した。信長の京都統治は既存勢力に配慮した、比較的保守的なものであったが、秀吉は京都の関所・座を撤廃するとともに、地区再編に取り組んだ。このとき、京都全体を囲む土塁と堀である御土居が築かれた。江戸期には政治の中心は江戸に移るも、京都は江戸・大坂に並ぶ三都のひとつとして発展した。幕末には二条城にて大政奉還が宣言され、明治新政府は一時京都にて政務をとりおこなった。しかし、明治2年(1869年)には皇居および官庁が東京(江戸)に移転され、京都はそれにともなう人口流出を経験した。近代には琵琶湖疏水の整備をはじめとする近代化に向けての模索が進み、京都市三大事業といった都市政策もとりおこなわれた。京都は太平洋戦争中、アメリカ軍による原子爆弾の投下予定地となったが実現せず、結果的にはその影響で空襲の被害をほとんど受けなかった。京都は、戦後の1956年(昭和31年)には政令指定都市となった。また、京都市内の社寺・城郭は1994年(平成6年)に「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。
弥生時代以前の考古学的遺構

大枝遺跡(西京区)・中臣遺跡(山科区)・菖蒲谷遺跡(右京区)など、京都市内の各所でサヌカイト製ナイフ形石器・チャート製尖頭器といった、旧石器時代の遺物が出土している[1][2]。ナイフ形石器の主要な材料として利用されたサヌカイトは、近畿地方の周辺の石器と同様二上山で産出するものである。また、チャートは丹波帯に属する地域および丹波山塊を起源とする河川堆積物、あるいは大阪層群中から獲得することができる[3]。縄文時代の遺物としては、西ノ京南上合町遺跡(中京区)より早期前半の土器が見つかっている。京都府全体で、遺構が増えていくのは縄文時代早期後半以降である[4]。縄文時代の遺跡のうち特に大規模なものとして北白川遺跡群(左京区)があり、このなかの上終町遺跡からは縄文時代早期後半の住居跡が検出されている[4][2]。京都市内の縄文遺跡は、その多くが北白川の扇状地と山科盆地に集中するが、右京区の嵯峨院跡・天龍寺隣接地などにおいても中期・晩期の土器が出土している[2]。
弥生時代には京都市域においても稲作がもたらされた。下鳥羽遺跡(伏見区)では九州北部に由来する遠賀川式土器が出土しており、広範な人の交流があったことがわかる。この時期の遺跡は桂川・鴨川といった中小河川に面した湿地周辺を中心に分布している。弥生時代中期終盤には人口増加、あるいは開墾・灌漑技術の進歩などによって、水田に必ずしも適さない地域にも遺跡が広がるようになり、後期には中臣遺跡・植物園北遺跡(北区・左京区)のような、地域の中枢となりうるような大規模遺構も検出されるようになる[5]。
古墳時代から奈良時代

古墳時代には、向日丘陵に元稲荷古墳・五塚原古墳(いずれも向日市)、南山城地域に椿井大塚山古墳(木津川市)などが、5世紀に入ると宇治市から城陽市にかけた台地上に久津川古墳群が築造される[6]。京都市域においては、向日丘陵一帯の古墳群に連なる一本松塚古墳[7]、百々池古墳、塚ノ本古墳がある[8]。これら盆地西部・桂川流域の古墳とは別に、盆地東部の高野川一帯にも将軍塚1号墳、八坂古墳(東山区)、仁明陵北方古墳、黄金塚古墳(伏見区)などが分布している[9]。5世紀末にはこうした古墳は群集墳に移り変わったが、嵯峨野(右京区)においては例外的に蛇塚古墳といった比較的大規模な前方後円墳が築造されている[10]。これは、後述する秦氏との関連が指摘されている[11]。
この時代(4世紀 - 5世紀)には、ヤマト王権によってこれらの地域に葛野県主・鴨県主といった県主が設置されている。葛野県はその後の葛野郡・愛宕郡・乙訓郡・綴喜郡などを包摂する地域名称であり、葛野県主は『日本書紀』などにみえる伝承上においては八咫烏の末裔ということになっている。賀茂県主の名前は『続日本紀』に初出する。両者は同一の対象を指すとの説がある一方、そうではないという主張もある[12]。
また、桂川流域には屯倉(朝廷直轄地)も設営され、乙訓郡内には式内社の茨田神社が建立された。ほかに、深草には5世紀に渡来した秦氏によって深草屯倉がつくられた。秦氏は盆地西部に勢力を広げ、推古天皇11年(603年)ごろ、太秦にて秦公寺(広隆寺)を建立している[注釈 1]。また、渡来氏族によって同時期に建立されたと思わしき寺院に、樫原廃寺・北野廃寺がある。深草屯倉は皇極天皇2年(643年)、山背大兄王が蘇我入鹿に反撃するのにこの屯倉を拠点とする意見が出ているよう、大化前代において朝廷の有力な経済的基礎のひとつとなっていた[13]。
律令制下においては、京都市域を含む山背国は8郡(乙訓郡・葛野郡・愛宕郡・紀伊郡・宇治郡・久世郡・綴喜郡・相楽郡)に分割された[14]。班田制実施のための条里制にもとづく地割りも実践され、京都盆地においては巨椋池周辺を除いた全域にその痕跡が残っている[15]。正倉院文書にある神亀3年(726年)の山背国愛宕郡出雲郷計帳は、現在の出雲路(北区)周辺における律令制の状況について記しており、同地の住民が平城京造都にあたっての雇役を回避すべく、多く逃亡していたことも記録されている[13]。
宮都の造営と展開
長岡京への遷都とその頓挫

桓武天皇は延暦3年(784年)に造長岡宮使を任命し、平城京から首府を移設すべく、山背国乙訓郡にて長岡京の造営を開始した。乙訓郡への遷都については、同地に勢力を広げていた渡来氏族の影響もあった[16]。桓武天皇の外祖父である高野朝臣乙継は百済系氏族(和氏)である[17]。当時の妻問婚の風習を考えると、桓武天皇は乙継の娘であり、自らの母にあたる高野新笠の住む、大枝で育ったかもしれない。さらに、造長岡宮使長官・藤原種継の妻は秦氏の出身である[16]。桓武天皇は渡来系氏族の助力を得ながら、京都盆地にて平城京時代に代わる新体制を設立しようと試みていた[18]。さらに、長岡京は桂川西岸にあり、その至近で宇治川・木津川と合流して淀川となる。このような水運上の利点も、長岡京遷都の理由のひとつになったといわれる[19]。
しかし、延暦4年(785年)には藤原種継暗殺事件が起き、これに連座した早良親王は絶食して死んだ[20]。この一件以降、桓武天皇は母の高野新笠、皇后の藤原乙牟漏などを相次いで亡くし、皇太子の安殿親王も重病に見舞われた。これは早良親王の怨霊によるものであると噂された[21]。さらに、延暦11年(792年)には長岡京が洪水の被害を受けた[22]。この前後の記録である『日本後紀』に欠文があるため、平安京遷都の理由ははっきりとはわからないものの[23]、怨霊に対する恐れ、自然災害の影響、あるいは地形的な造営の困難さなどが再遷都の理由として論じられている[24]。桃崎有一郎によれば、平野部の大河川と一体化した立地で大規模な条坊制の都を営む経験はこれまでの朝廷にはなく、長岡京は結果的には試行錯誤のひとつとして放棄された[25]。
平安京への遷都とその変質


平安京への遷都は、延暦13年(794年)に行われた。平安京は、秦氏の根拠地でもある、葛野郡・愛宕郡にまたがる地域に造営された[22]。網伸也によれば、長岡京が造営計画のともなわない段階での急速な遷都であったのに対して、平安京は遷都の3年前から計画が立てられていたようである[24]。平安京は東西に4.5 km、南北に5.2 kmの長方形であり[24][注釈 2]、唐の首府・長安、あるいは平城京・長岡京と同様、内裏を北に置く「北闕型」の都城として設計されている[25][注釈 3]。平安京は長安の3分の1、平城京とほぼ同等の規模であった[32]。平安京造営は、内裏および中心道路の朱雀大路とその周辺施設、大・中規模邸宅といった、都城の景観に関わる地域のものが優先され、その周辺部分はなおざりになった[24]。
いわゆる三十八年戦争の影響もあり、平安京造営のための造宮職は延暦24年(805年)に廃止され、木工寮がこれを引き継いだ[33]。遷都後も、平城京には宮殿や貴族の邸宅が現存していた。桓武天皇没後、次代の平城上皇は嵯峨天皇との対立を背景に、大同5年(810年)、藤原仲成・薬子とともに平城京への再遷都を試みた。しかし、これは失敗して仲成・薬子はそれぞれ誅殺・自殺、上皇は出家に追い込まれた(薬子の変)。これにより、平城京は急速に荒廃していった[34]。弘仁9年(818年)に設置された修理職も、木工寮とともに造都に関する職務を引き継いだ[33]。
平安京において、貴族は左京北部に1町程度の敷地の邸宅を築き、一般の住人は四行八門制にもとづく32分の1町を基準とする宅地に居住した。当初、庶民の住宅は京の南半に偏っていたが、10世紀ごろには貴族邸宅と混在するようになる。天元5年(982年)ごろに成立した『池亭記』には「東京四条以北、乾艮二方、人人貴賤と無く、多く群聚する所なり」とある[35]。また、天徳6年(960年)以降、左京においては里内裏が営まれるようになり、大内裏はしだいに衰退していった。これにともない左京に都市機能が集中し、市街地が拡大していった[35]。一方、桂川・紙屋川の氾濫原であり、低湿地となっていた右京の造営は進まず、ほとんど人も住まなかった[36]。『池亭記』には「西京は人家漸く稀にして、殆ど幽墟に近し」とあり[37]、考古学的にも、右京には宅地はおろか、条坊の跡すら確認できない地域がある[38][注釈 4]

国際関係儀礼が途絶えた摂関時代、平安京の中心道路であるはずの朱雀大路は、大嘗祭・標山巡行の順路として以外にほとんど役割を失っていた。天元3年(980年)にその正門・羅城門は風雨で倒壊するものの、その24年後にあたる寛弘元年(1004年)に至るまで修理はなされなかった[41]。平安京への遷都から鎌倉幕府の成立までの時代を平安時代と呼称するが、これはこの時代の政治・経済が平安京とその周辺に大きな比重を置くものであり、史料の残存状態にもこれが強く反映されているからである[42]。この期間の平安京一帯においては『内裏式』『貞観儀式』『蔵人式』などの制定を通して一連の宮廷儀礼が成立したほか[42]、遣唐使の停止、仮名文字の発達と浄土思想の普及によって、中国的なものを離れた貴族文化としての国風文化が醸成されていった[43]。

院政期には天皇が里内裏にて生活することが常態化し、『中右記』によれば天永3年(1112年)に白河上皇は「内裏の殿舎は甚だ広博なり」とまで言っている[44]。左京においては塀で囲まれていた条坊もほとんど無視されるようになった。人口密集地では非公式の道路である辻子が条坊地割の内部を通るようになり、街路には小家(町屋)が立ち並んだ。また、条坊間の道路も耕地ないし宅地として開発されるようになり、これを巷所と呼ぶ[45]。また、平安時代の中・後期以降は、白河・鳥羽など、平安京の郊外にも都市区画が設営された[46]。白河は交通の要所であったが、同地に承保2年(1075年)に建立された白河天皇の御願寺である法勝寺は、高さ二十七丈(81m)に及ぶ八角九重塔(永保3年(1083年)に供養)がそびえ立ち、東から京に入る人々に院政政権の威厳を見せた[47]。平安京の外部にまで都市が伸長していったことは、それまで「首都」を表す一般名詞にすぎなかった「京都」が固有名詞化していく理由のひとつともなった[13]。
京都の都市化が進み、住居が密集していったことにより、大規模な火災も発生するようになった[48]。安元3年(1177年)の太郎焼亡と、治承2年(1178年)の次郎焼亡は、古代都市・平安京が中世都市・京都に変遷する契機となった[13]。治承4年(1180年)には、平清盛ら伊勢平氏が後白河法皇を鳥羽殿に幽閉して院政を停止し、新政権を立ち上げたものの、これに対して源頼朝ら清和源氏は反乱を起こした。平氏は平安京から福原京への遷都によって勢力基盤を守ろうとしたものの、これは半年で頓挫した[49]。両者の争乱(治承・寿永の乱)によっても、京都の多くの建造物が焼失した[13]。
中近世
鎌倉時代から室町時代

鎌倉時代には政治の中枢は鎌倉に移るも、依然として京都は朝廷や有力寺社の所在地であり、鎌倉を遥かに上回る大都市として機能し続けた[46]。多くの荘園領主の居住地であった京都は商業の中心として栄えたほか、浄土宗・禅宗・時宗・法華宗といった新宗教の勃興は、京都の宗教的都市としての色彩を強めさせていった[13]。幕府は京都守護を置いて京都を管理していたが、承久の乱を経た承久3年(1221年)にこれを廃し、六波羅探題を設置した[50]。朝廷は、鎌倉時代前期には閑院、後期には二条富小路殿を内裏として用いた[46]。平安京において政治的中枢であった大内裏の大部分は荒れ果てた原野(内野)となり、大番役として京都に入った武士が馬術・騎射術の練習をする空間として利用された[51]。
室町時代には、ふたたび政治の中枢が京都に戻る[46]。六波羅探題の打倒を経て成立した後醍醐天皇政権(建武の新政)においては、二条富小路殿が政務の中心として用いられた[52]。同政権は室町幕府(足利幕府)の初代将軍である足利尊氏によって覆され[注釈 5]、2代将軍足利義詮によって三条坊門万里小路と富小路の間に将軍御所が営まれた。3代将軍の足利義満は永和3年(1377年)に室町通に花の御所を設立したが、これは当時の内裏である土御門東洞院殿のおよそ倍の広さであった[59]。室町幕府においては侍所が京都の施政を担当した[60]。この時代には武家が京都に集住し、公家と交流を持ったことから、武家文化・公家文化の混淆が進み、北山文化が醸成された[61]。室町時代中期には、足利義政を中心として、公家文化および武家文化・禅宗文化、さらには庶民の高利貸である土倉・酒屋の経済力を背景とする東山文化が営まれた[62]。

将軍御所が室町に設置されて以降、左京北端周辺に広がる上京が政治的都市として、その南にある下京が商業地区として発展した[13][46]。応仁元年(1467年)より起こった応仁の乱は、室町幕府における足利義政の後継者を巡ってはじまった戦争であるが、畠山氏の後継者争い、幕府の実力者であった細川勝元・山名宗全の主導権争いなども相まって、11年にわたって続いた[63][64]。この戦争は、京都、特に上京に大きな被害を与えた。このころより京都の都市構造は大きく変化し、上京と下京の分立が著しくなった[46]。中世史家の瀬田勝哉は、応仁の乱以前の京都は激しい人口の増加によって絶えず膨張し輪郭と構造が掴みにくいが、応仁の乱を境として都市の枠組みが明確になり、内と外がはっきりとした都市となったと述べている[65]。また、応仁の乱以降は侍所の所司が欠員となることも少なからずあり、所司代がこれに代わって責任者となった[60]。
両地区は土一揆からの防衛などのために都市周辺に木戸・堀をめぐらせた(惣構)[13]。たとえば五条四坊二町跡(現: 洛央小学校敷地)においては総延長 50 m、幅 6 m、深さ 2 m の堀が検出された[46]。町人による自治共同体である町組の名前が初出するのは「古京仲之組六角町古帳之写」における天文6年(1537年)の記述である。これは天文法華の乱の後、下京の町組代表者5人が将軍拝賀のため六角堂で評議を開いたというもので、その内容からも町組自体の成立はもう少し遡ると考えられている[66]。特に応仁の乱以後、京都は町衆の都市としての性格を強めていった。この時期には高利貸を営む土倉衆と、文化的教養を豊富に有する没落公家が中心となって、御伽草子や『閑吟集』などに代表される庶民的文化が醸成されたほか[13]、庶民の祭りとして祇園祭が盛んになった[11]。
織豊政権


永禄11年(1568年)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛した。信長の京都統治はかなり保守的なものであり、朝廷・公家の既存の利権にはほとんど手を付けなかった。また、美濃・尾張においては実践した関所・座の撤廃も京都においては行わず、朝廷の収入源のひとつであった京都七口関なども温存された[67]。しかし、元亀4年(1573年)に義昭と信長が断交すると、信長は幕府の中枢である上京に放火した(上京焼き討ち)。この年義昭は追放され、室町幕府は滅亡した[68]。これに応じ、京都所司代として村井貞勝が置かれた[69]。
天正10年(1582年)、信長は明智光秀に討たれた(本能寺の変)が、豊臣秀吉が山崎の戦いにてただちにこれを破った[70]。同年の清須会議によって、豊臣秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田輝興の4人が設置した代官が京都を所轄することが定められた[71]。しかし、翌年には前田玄以が京都奉行となった。玄以は「覚悟仕り難き」大事については秀吉に相談すべきことが定められており、このときより秀吉が事実上の京都の為政者となった[72]。秀吉は、賤ケ岳の戦いを経て勝家を滅ぼしたのち、天正13年(1585年)に関白となった[73]。これにともない、玄以の役職も変化し、遅くとも天正17年(1589年)には玄以および浅野長政を京都所司代と呼ぶ史料がある[74]。
秀吉は天正15年(1587年)、内野に関白の居所として聚楽第を建設した[75]。これにより聚楽第を中心とする都市の開発がはじまり、天正18年(1590年)からは寺町・高倉間、堀川以西・押小路以南の地域において、平安京以来の町割りが短冊形の新地割に再編された(天正の地割)。また、市内に散在する寺院が寺町・寺ノ内に集約された[13]。天正19年(1591年)には座・関所も撤廃され[76]、同年には京都全体を囲む土塁と堀である御土居も築造された[77][78]。この時代には、戦乱により荒廃した寺社の再建が進んだ[79]。
江戸時代

江戸時代に入ると政治の中心は江戸に移るが[11]、京都は江戸・大坂と並ぶ三都のひとつとして、幕藩体制の政治・経済における中心的都市として機能し続けた[80]。慶長7年(1602年)には二条城が建設され、秀吉の作った伏見城は徳川将軍家の配下に置かれた後破却された[81]。(伏見城の天守は、寛永元年(1624年)からの二条城増改築における天守として用いられた[82]。)二条城が建設されたことによって、それまで上京・下京の境界として機能していた二条通が京都の主軸となった[13]。一方で、伝統的権威の象徴であるところの御所もやはり京都の中核であり、その周辺には公家の邸宅が立ち並ぶ公家町が成立した。近世京都は、二条城と御所という2つの核を有する町ともいうことができる[83]。また、市中の各所には諸藩により、京屋敷が建設された[13]。
慶長16年(1611年)には角倉了以らが高瀬川を開削し、二条木屋町から伏見・大坂へとつながる水路も整備された[13]。寛永期から寛文期にかけての京都においては公家文化と上層町衆の文化が融合したいわゆる寛永文化が展開された。また、元禄期には新興町人を中心として、上方文化(元禄文化)が発達した[13]。しかし、17世紀には水運の不利を背景として、江戸・大坂と比較しての京都の衰微が進んだ。三井高房は『町人考見録』にて那波三郎右衛門ら京都の商家50家あまりが没落していることを記している。西廻航路・東廻航路と直接結びついた都市である大坂に進出する商人も多く、たとえば寛永元年(1624年)に大坂に店を開いた住友政友はそのひとりである[84]。17世紀後半には日本の経済的中心として大坂が勃興し、京都の経済は「名物・名産」であるところの工芸・手工業を中心とするものに転換した。また、京都の経済は観光を中心とするものに傾いていき、寺は遠忌・開帳をくり返し企画して参観者を集めた[13][85]。

江戸幕府は、織豊政権のそれを踏襲するかたちで、京都所司代を任命した[69]。また、寛文6年(1666年)には伏見奉行も成立した[86]。京都所司代は京都のみならず、畿内近国一帯において行政・司法の権限を有したが[87]、寛文8年(1668年)の牧野親成辞任を契機として、京都所司代の郡代的役割の職である、京都町奉行が創設された[88]。元禄9年(1696年)には伏見奉行が廃され、その権限は京都町奉行に吸収された。これにともない、京都町奉行の定員は2人から3人になった[89]。享保7年(1722年)にはそれまで畿内近国一帯を管轄していた京都町奉行の権限が縮小され、山城・近江・丹波・大和の4カ国が新たな管轄となった[90]。
京都には、行政補佐のため、町人からなる町年寄(惣年寄)も置かれた[91]。しかし、有力町人である町年寄は、家業のために町の運営に専念することができず、しだいにその補佐役である町代に権限が移っていった。町代は寛文年間(1661年 - 1673年)ごろには、幕府により任命される世襲制の職となった[92]。このような背景から、町代と町組はしばしば対立するようになった。文化14年(1817年)には、町代の専横を訴える町人らによって町代改儀一件が起こる[93]。これにより、町代の役割は触の伝達程度にまで縮小された[94]。

幕末期には、それまで非政治的な存在として力を押さえられてきた朝廷が、幕府に対する政治運動の核として浮かび上がった。これにより京都は政局の中心となり、政争が繰り返されるようになった[95]。元治元年(1864年)には、尊王攘夷派であり、前年に朝廷を追放された(七卿落ち)、長州藩の勢力が京に攻めのぼり、会津藩・薩摩藩の兵士と戦闘する、禁門の変が起こった[96]。この戦闘の影響で下京の大半、京都市街の民家のおよそ4割にあたる275,000軒あまりが焼け落ち、これを俗に「どんどん焼け」という。この火災は、近世の京都でも未曾有の規模のものであった[13][96]。慶応3年(1867年)、15代将軍徳川慶喜は二条城にて大政奉還を宣言した[97]。慶喜はその時点で公議政体論を奉じていたため西郷隆盛・大久保利通ら倒幕派と対立し、戊辰戦争が起こった。同戦争の口火を切る戦いとなったのが、慶応4年(1868年)に京都郊外で起こった鳥羽・伏見の戦いである。しかし、この戦いで新政府軍が勝利したことによって、倒幕派の力はいよいよ高まった[98]。

