異論派
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ソ連の異論派
1956年のニキータ・フルシチョフによってスターリン批判がなされて、ヨシフ・スターリンの大粛清などが明らかになった。それに続いてフルシチョフの雪解けと呼ばれる検閲と抑圧が緩和され、1960年代初頭からから地下出版サミズダートが始まった[1]。
1966年2月のダニエル=シニャフスキー裁判で、ペンネームで国外で作品を発表した作家ユーリー・ダニエリとアンドレイ・シニャフスキーは反ソ宣伝として刑法70条違反に問われ,自由剝奪5年および7年の判決を受けた[1]。
1967年1月22日、デモ集会を取締る刑法190条の修正(1966年9月16日付)に抗議するデモがにモスクワのプーシキン広場で行われたが、ウラジミル・ブコフスキーら5人が逮捕され、1967年、190条違反で自由剝奪3年~1年が宣告された[1]。
1968年1月、ダニエル=シニャフスキー裁判に関する記録や論争をサミズダートで出したアレクサンドル・ギンズブルグとユーリ・ガランスコフらに対する裁判で、2人は刑法70条違反とされ,5年,7年の刑に処せられた[1]。
これらの三つの裁判をめぐって広範な知識人たちが抗議し、減刑嘆願などを行った[1]。
1968年夏のソ連によるチェコスロヴァキアへの軍事侵攻にもダニエル夫人のラリサ・ボゴラスやパーベル・リトビーノフらが赤の広場で抗議のデモを行い,10月の裁判でそれぞれ4年,5年の判決を受けた[1]。以降、ソ連当局は知識人の運動を抑え込み、体制の枠内にもどる知識人と、抵抗を続ける異論派とを分裂させた[1]。1970年代、ソ連当局は異論派の出国を認めて市民権を剝奪した[1]。
1985年、ペレストロイカが始まると,異論派は帰国し大きな役割を演じた[1]。
ソ連体制を批判した知識人や芸術家は、迫害、投獄、あるいは国外追放の対象となったが、ロシア連邦でも、ウラジーミル・プーチン大統領による「管理された民主主義」に反対する人々は、投獄や、しばしば暗殺されている[3]。
関連人物
- ロイ・メドヴェージェフの『歴史の審判を求めて--スターリン主義の起源と結果』(1971年)
- アレクサンドル・ソルジェニーツィンの『収容所群島』
- 「ソ連水爆の父」といわれる物理学者・民主主義者アンドレイ・サハロフ
- ソルジェニーツィンを擁護して演奏活動を禁止され、1974年に亡命したチェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチ
- 作家ウラジーミル・ボイノービチは作家同盟を除名され、旧西ドイツに出国。1981年にソビエト市民権を剥奪された[4]。
- 作家ワシリー・アクショーノフはアメリカに亡命。
- 生物学者ジョレス・メドヴェージェフは非党員でありイギリスに国外追放。
- 将軍ペトロ・グリゴレンコは、 1968年、グリゴレンコがチェコスロバキアへのソビエト侵攻に抗議した後、彼はソビエト連邦共産党から除名され、逮捕され、最終的に精神病院に収容され、1977年アメリカに渡り、ソビエト市民権を剥奪された。
- 作家レフ・コーペレフ
- 1977年からは物理学者ユリ・オルロフらのヘルシンキ条約履行監視のためのモスクワ・ヘルシンキ・グループのメンバーが逮捕され、1982年9月解散に追い込まれた[1]。ソ連崩壊前に活動を再開したが、2022年12月20日に解散が命じられた[5]。
- レオニード・プリウチ
- 歴史家アンドレイ・アマルリク
- アレクサンドル・ギンズブルグ
- ヴィクトル・ネクラーソフ
- アレクサンドル・ジノビエフ
チェコスロバキア
チェコスロバキアの異論派にはイジー・ハーイェク、ヴァーツラフ・ハヴェル、ヤン・パトチカがいる。