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異論派

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異論派(いろんは、ロシア語: Диссидент、英語: Dissident、Dissidenty、ディシデント)は、次の二つの意味がある。

  1. 教会・信仰に異説を唱える人々を指す語[1]、政治体制や宗教体制、教義、信念、政策、制度に対して、積極的に異議を唱える人物[2]。
  2. 20世紀のレオニード・ブレジネフ時代以降のソビエト連邦およびソ連崩壊後のロシアにおいて、体制を批判し、行動した少数派、ソ連体制への批判勢力・反体制派の作家、知識人[1][3]。

ソ連の異論派

1956年のニキータ・フルシチョフによってスターリン批判がなされて、ヨシフ・スターリンの大粛清などが明らかになった。それに続いてフルシチョフの雪解けと呼ばれる検閲と抑圧が緩和され、1960年代初頭からから地下出版サミズダートが始まった[1]。

1966年2月のダニエル=シニャフスキー裁判で、ペンネームで国外で作品を発表した作家ユーリー・ダニエリとアンドレイ・シニャフスキーは反ソ宣伝として刑法70条違反に問われ,自由剝奪5年および7年の判決を受けた[1]。

1967年1月22日、デモ集会を取締る刑法190条の修正(1966年9月16日付)に抗議するデモがにモスクワのプーシキン広場で行われたが、ウラジミル・ブコフスキーら5人が逮捕され、1967年、190条違反で自由剝奪3年~1年が宣告された[1]。

1968年1月、ダニエル=シニャフスキー裁判に関する記録や論争をサミズダートで出したアレクサンドル・ギンズブルグとユーリ・ガランスコフらに対する裁判で、2人は刑法70条違反とされ,5年,7年の刑に処せられた[1]。

これらの三つの裁判をめぐって広範な知識人たちが抗議し、減刑嘆願などを行った[1]。

1968年夏のソ連によるチェコスロヴァキアへの軍事侵攻にもダニエル夫人のラリサ・ボゴラスやパーベル・リトビーノフらが赤の広場で抗議のデモを行い,10月の裁判でそれぞれ4年,5年の判決を受けた[1]。以降、ソ連当局は知識人の運動を抑え込み、体制の枠内にもどる知識人と、抵抗を続ける異論派とを分裂させた[1]。1970年代、ソ連当局は異論派の出国を認めて市民権を剝奪した[1]。

1985年、ペレストロイカが始まると,異論派は帰国し大きな役割を演じた[1]。

ソ連体制を批判した知識人や芸術家は、迫害、投獄、あるいは国外追放の対象となったが、ロシア連邦でも、ウラジーミル・プーチン大統領による「管理された民主主義」に反対する人々は、投獄や、しばしば暗殺されている[3]。

関連人物

チェコスロバキア

チェコスロバキアの異論派にはイジー・ハーイェク、ヴァーツラフ・ハヴェル、ヤン・パトチカがいる。

ポーランド

脚注

関連項目

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