白蓮教徒の乱
白蓮教の信徒が起こした反乱
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事前の経緯
勃発
乾隆帝が劉之協の捕縛を命じて和珅(へシェン)の兄弟の和琳(ヘリェン)を白蓮教の鎮圧に送りこみ、全土で過酷な取調べが行われ、無関係の民衆多数が犠牲になり、加えてこれを良いことに官吏たちは捜査の名目で金銭の収奪などを行った。
1795年、乾隆帝が嘉慶帝に皇位を譲ると、ヘシェンが地位を利用して専横を開始した。
これらの事で民衆は不満を募らせ、1796年(嘉慶元年)に湖北省で王聡児・姚之富率いる白蓮教団の指導のもとに反乱を起こした。これを契機として陝西省・四川省でも反乱が起こり、更に河南省・甘粛省にも飛び火した。
白蓮教徒たちは弥勒下生を唱え、死ねば来世にて幸福が訪れるとの考えから命を惜しまずに戦った。この反乱には白蓮教徒以外にも各地の窮迫農民や塩の密売人なども参加しており、参加した人数は数十万といわれる。
それを鎮圧するべき清朝正規軍八旗・緑営は長い平和により堕落しており、反乱軍に対しての主戦力とはならず、それに代わったのが郷勇と呼ばれる義勇兵と団練と呼ばれる自衛武装集団であった。
白蓮教徒たちも組織的な行動が無く、各地でバラバラな行動を取っていたために次第に各個撃破され、1798年に王聡児・姚之富が自害。
1799年に乾隆上皇が崩御し、親政を開始した嘉慶帝がヘシェンを弾劾し、ヘシェンは自殺した。
1800年に劉之協が捕らえられ、1801年には四川の指導者の徐天徳・樊人傑が自害するなど次第に下火になっていき、1802年頃にはほぼ鎮圧された。