百武賢兼
日本の武将 (1534-1584)
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出自
略歴
戸田兼定の長男として誕生。当初は兼道・兼通(ともに読みは「かねみち」)を名乗るが龍造寺鎮賢(後の政家)より偏諱(「賢」の字)を受け賢兼と改名した。
賢兼は龍造寺軍の中核として各地を転戦し武功を挙げ、特に永禄12年(1569年)4月6日の植木・三溝口・多布施口の戦いに臼杵鎮冨・戸次鑑連・吉弘鑑理ら大友勢を相手しても奮戦し、主君・龍造寺隆信から百人並みの武勇を有すると賞され、百武姓を賜った。賢兼はその武勇から龍造寺四天王の一人に数えられるほか、龍造寺氏配下の武勇優れた4人を総称する「両弾二島(両弾二志摩)」(大村弾正・犬塚弾正・百武志摩守・上瀧志摩守)の一人にも挙げられている。
天正12年(1584年)3月24日の沖田畷の戦いで隆信と共に討死した[1]。佐賀市多布施の天佑寺に夫妻の墓が現存している。
逸話
- 天正9年(1581年)、隆信が筑後国進出のために蒲池鎮漣を謀殺し、その居城である柳川城に攻め入った(柳川の戦い)。しかし、蒲池氏には、鎮漣の父・鑑盛がかつて龍造寺氏が危機に陥った際に助けた恩義があった。賢兼の室は出陣を促すも賢兼は涙を流し、遂に最後まで出陣しなかった。賢兼も主家の家運について利運のない事を感じていたらしい(『葉隠聞書十一』)[2]。
- この逸話にて登場する賢兼の妻(法名・円久妙月)は男勝りの性格と伝えられ、大友氏との戦いでは鍋島直茂の命で城を守備し、自ら薙刀を携えて、戸口に立ち兵を指揮したという逸話(『北肥戦誌』)も残っている。 沖田畷の戦い後、戸次道雪と高橋紹運が蒲船津の城を攻撃したが、このとき亡夫に替わって城を守りこれを撃退した。大剛無双で普段から乗馬を好み、長髪の大鬢を左右に分けていたという(『直茂公年譜』)[3]。