百済王明信
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桓武天皇との関係
宝亀元年(770年)正五位下[1]、宝亀6年(775年)正五位上[2]、宝亀11年(780年)従四位下[3]、天応元年(781年)従四位上[4]、延暦2年(783年)正四位下[5]、同年に正四位上[6]とつづけて昇叙される。延暦6年(787年)高椅津への行幸の帰りに従三位に叙される[7]。延暦16年(797年)には尚侍を賜る[8]。2年後に正三位に昇る[9]。弘仁6年(815年)10月に没。従二位であった。
桓武天皇は百済からの諸蕃系氏族を重用してきたが、特に明信は天皇の寵愛を受けていた。『日本後紀』によると、延暦14年(795年)4月1日の宴にて天皇が、
いにしえの野中古道あらためばあらたまらんや野中古道
と古歌を誦し、明信に対して返歌を求めた。しかし明信はこれができなかったので、天皇は明信に代わって
きみこそは忘れたるらめにぎ珠のたわやめ我は常の白珠
と詠んだという。また、明信の息子の乙叡の薨伝には、「…母尚侍百濟王明信被帝寵渥。」とあり、ここからも明信が天皇に寵愛されていたことが窺える[10]。
