薩摩国鹿児島郡鹿児島城下高麗町(鹿児島県鹿児島市高麗町)に生まれる。益満家は薩摩藩士の家柄で、兄の休之助(行武)は戊辰戦争で戦死しており、弟に陸軍少将・益満邦介がいる。戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いや会津戦争での転戦のなかで戦功を挙げ、その後新政府陸軍に出仕して順調に昇進し、陸軍大尉を経て陸軍中佐に進んだ。
明治6年、兵制研究のため独逸派遣を命じられ、単身でドイツへ留学した最初期の日本陸軍将校とされる。明治8年には桂太郎と同時期にに独逸留学生としてベルリンに滞在し、参謀科用兵学・軍制研究に従事した。この派遣は、日本陸軍とドイツ陸軍との公的・制度的関係の嚆矢と評価されている。
しかし留学中に肺病を患い、将来を嘱望されながらも回復せず、明治11年8月5日、ベルリン郊外フリードリッヒローダ(英語版)において客死した。享年32。最期には無二の親友である河島醇が付き添っていたという。
鹿児島市高麗町には「益満どんの屋敷」と呼ばれる旧宅が残り、玄関前には行靖を顕彰する碑が建てられている。