益田昭雄
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山口県立久賀高等学校から社会人野球の山陽特殊製鋼へ進み、1962年の第33回都市対抗野球大会に出場すると2回戦(対日本鉱業日立戦)で石戸四六(日立製作所からの補強選手)と投げ合い完封勝利を収めた。チームは準々決勝まで進出するも東洋レーヨンに敗れた[1]。
同年に読売ジャイアンツへ入団し、1963年に初勝利を含む2勝を挙げる。翌年こそ勝ち星を挙げられなかったが1965年と1966年に4勝を挙げ、1966年の日本シリーズ(対南海ホークス戦)では3勝2敗で迎えた第6戦の先発を任され、皆川睦雄と投げ合い完封勝利を収めた。チームはこの勝利で日本一となり益田は胴上げ投手となったが、最後の対戦打者は野村克也でレフトフライに打ち取っている。同年10月の日米野球では対ロサンゼルス・ドジャース戦に先発し、完封勝利を挙げるなど充実したシーズンを送った。なお、日米野球での日本人投手による完封勝利は1962年の村山実(阪神タイガース)に続く史上2人目の快挙だった。
1968年に西鉄ライオンズへ移籍し、開幕直後から先発として起用されて7勝を挙げ、6月16日の対南海ホークス戦では公式戦で自身初の完封勝利を挙げた。同年は初の規定投球回にも到達し、1969年も自己最多となる8勝を挙げた。最大の武器であるスクリューボールを主体にスライダーやカーブ、シュート、フォークなど多彩な変化球で打者を翻弄した。
しかし、1970年に発覚した黒い霧事件にて敗退行為に関与したことが判明し、永久追放処分となった。球界を離れてからは福岡県内でタクシー運転手として勤務している。