益田精祥
From Wikipedia, the free encyclopedia
文久2年(1862年)、長州藩家老益田親施の子として生まれる。元治元年(1864年)11月、父親施が禁門の変の責任を取り切腹する。精祥はまだ3歳の幼児であったため、藩主一門吉敷毛利房謙の九男で桂家を相続していた親澄(益田親祥)が、叔母房子の婿養子として益田家に入り、当主代理を務めることとなった。
慶応元年(1865年)3月に家督を相続する。同年、父が咎めを受けたため幕府を憚って、先祖が称していた御神本に名字を改めた。明治元年(1868年)、名字を益田に復す。明治6年(1873年)、親祥に家督を譲り、その養子となる。
明治12年(1879年)3月、親祥が隠居し、同月28日に家督を相続する[1]。明治22年(1889年)、毛利敬親を祀る山口県県社野田神社祠官となり、同年豊栄神社の御用係となる。
明治33年(1900年)、父・親施の明治維新への功績により従五位・男爵に叙され、華族となる。
1917年8月25日卒。享年56。