盧循
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略歴
祖父の盧勗の代に五胡十六国の乱を避けて東晋に帰順した。元興元年(402年)、孫恩が戦いに敗れて投身した後、妹婿だった関係から反乱軍の指導者となる。孫恩は残忍な性格だったが、盧循はことあるごとに諫めて抑えてきたため、士人の中にはそれによって救われた者が多かったのである。
その後、反乱を起こして東晋の実権を握った桓玄から永嘉郡太守に任ぜられるが、反乱を真面目に鎮めようとしなかった事から劉裕に討伐をされる。連戦連敗で海に逃れるが、劉裕が桓玄に反旗を翻したことによって息をつくことができた。元興3年(404年)、桓玄討伐のどさくさにまぎれて広州を占領する。盧循は東晋に貢納を願い出た。ちょうど桓玄を打倒したばかりだった劉裕政権は、盧循を征虜将軍・広州刺史代行として支配権を追認した(『晋書』盧循伝)。
義熙6年(410年)、劉裕が南燕を討つために北伐すると、盧循の姉の夫である徐道覆は、隙を衝いて北進するよう主張した。盧循は反対したが、徐道覆は「朝廷はあなたを目の上のたんこぶと思っています。劉裕が斉の地(青州)を平定したら、精鋭を率いて乗り込んでくるでしょう。そうなれば神武の力を得たとしても敵いません。先に都を落としてしまえば、劉裕が帰って来ても何もできないでしょう」と決戦を主張した。盧循は気が進まなかったが、徐道覆に反論できず出兵に同意した。
徐道覆は都に売ると偽って南康山で材木を伐採させ、輸送の人手不足を理由に安価に売りさばいた。材木が十分に溜まると買い上げ、軍船を建造した。こうして船団を組織すると出撃し、劉裕の盟友であった江州刺史の何無忌を敗死させ、劉毅の軍も破った。戦況は圧倒的優位に進んでいったが劉裕が戻ってくると、劉裕を恐れて建康に進軍できなかったことから戦況が逆転する。
11月、劉裕の命を受けた孫処は海上から広州を急襲して攻め落した。12月、大雷というところで決戦となり盧循軍は壊滅的な敗北を喫する。その後、左里の戦いの敗北が致命傷となって軍勢を立て直すことができず官軍の追撃を避けて交州まで逃げた。結局、義熙7年(411年)4月に交州刺史の杜慧度の策略に巻き込まれて残った兵力まで壊滅すると、妻子や妓妾たちに毒を飲ませ、盧循自身も水中に身を投じる。死後、盧循の屍は水から引き揚げられ斬刑に処され、父の盧嘏もこの時斬首された。盧循らの首は建康に送られた。