盧詹
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天祐10年(913年)、河中節度従事となった。同光元年(923年)、後唐の荘宗が即位すると、盧詹は戸部員外郎・知制誥に抜擢された[1]。天成2年(927年)、中書舎人に転じた[2]。天成4年(929年)、礼部侍郎[3]・知貢挙に任じられた。のちに御史中丞・兵部侍郎を歴任した[1]。長興4年(933年)、吏部侍郎に転じた[4]。盧詹は剛直な性格で、権貴との議論を避けず、いつも宰相に憎まれた[1]。
後晋の天福3年(938年)、盧詹は尚書左丞となった[5]。天福4年(939年)、礼部尚書・分司西都に任じられた[6]。尚書右僕射の盧質や散騎常侍の盧重とともに洛陽にあって、連れ立って山水に遊び、飲酒を楽しんだので、洛陽の朝士に「三盧会」と称された[1]。開運元年(944年)3月10日[7]、洛陽で死去した。太子少保の位を追贈された[1]。