盧象昇

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盧 象昇(ろ しょうしょう、1600年 - 1639年)は、明朝末期の官僚・軍人。字は建斗、号は九台。南直隷常州府宜興県(現在の江蘇省宜興市)出身。[1][2]

盧象昇像

生涯

象昇は色白で痩身であるが、腕に特異な骨があり、生まれつき人並み外れた力を有していた。天啓二年に進士となり、戸部主事に任じられた。のち員外郎を経て、しだいに大名知府に昇った。[3]

崇禎二年、京師が戒厳されると、一万人の兵を募って入衛した。翌年、右参政兼副使に進み、大名・広平・順徳三府の兵備を統括し、その軍は「天雄軍」と号された。さらに翌年、治績卓異により按察使に抜擢されたが、軍務は従前どおり執り続けた。象昇は文官出身でありながら、射を善くし、将略に通じ、よく軍を統率した。[4]

六年、山西の賊が畿輔へ流入し、臨城の西山に拠った。象昇はこれを撃退し、総兵梁甫・参議寇従化とともに連破した。賊は西山へ逃げ戻り、遊撃董維坤を冷水村に囲んだ。象昇は石城の南に伏兵を置いて大破し、さらに青龍岡・武安でも破った。賊の首魁十一人を相次いで斬り、その党を殲滅し、奪われた男女二万人を救い還した。三郡の民は数年間安堵した。象昇は出陣のたびにみずから先頭に立ち、賊と格闘し、刀が鞍に及んでも意に介さず、馬を失えば徒歩で戦った。賊を険しい崖に追い詰めた際、賊が崖上から放った矢が象昇の額に命中し、さらに一矢が従者と馬を倒したが、象昇は刀を手に、かえっていっそう激しく戦った。賊は驚いて敗走し、「盧廉使に遇えば即死、決して手を出すな」と互いに戒めた。象昇はこれにより強兵の将として名を馳せた。賊は恐れて、南のかた黄河を渡った。[5]

翌年、賊は楚に入り、鄖陽の六県を陥れた。象昇は右僉都御史に任じられ、蔣允儀に代わって鄖陽を巡撫した。当時、四川から楚へ戻った賊は鄖陽の黄龍灘に駐屯していた。象昇は総督陳奇瑜と二手に分かれて挟撃し、烏林関・乜家溝・石泉壩・康寧坪・獅子山・太平河・竹木砭・箐口などの各地で連戦連勝し、斬首は五千六百余に達し、漢南の賊はほとんど一掃された。そこで鄖陽の兵力増強、税の減免、城郭の修繕、隣郡の食糧借用、商人を募って銅山を開発し貨幣を鋳造すること等を請願し、鄖陽は安定を取り戻した。[6]

八年五月、右副都御史に抜擢され、唐暉に代わって湖広を巡撫した。八月、江北・河南・山東・湖広・四川の軍務を総理し、湖広巡撫を兼ねた。総督洪承疇は西北方面を、象昇は東南方面を担当した。まもなく巡撫の任を解かれ、兵部侍郎に進み、山西・陝西の軍務の監督を加えられ、尚方剣を賜り、便宜的な措置を許された。汝州・洛陽から警報が届くと、象昇は倍速で駆けつけて汝州に入った。賊の集団は三十万以上、陣営は百里に連なり、破格の勢いであった。象昇は副将李重鎮・雷時声らを督して城西で高迎祥を攻撃し、強弓を用いて賊千余人を射殺した。迎祥と李自成は敗走して光州を陥れたが、象昇はさらに確山で大破した。これより以前、大将の曹文詔・艾万年が戦死し、尤世威も敗北していたため、諸将はおおむね賊を怖れて前進しようとしなかったが、象昇はそのつど慷慨して涙を流し、忠義を説いて激励した。軍中で三日間兵糧が途絶えたときも、象昇はひと口の水さえ口にせず、そのために将士の心を掌握し、戦えば必ず戦功があった。[7]

九年正月、鳳陽に諸将を集結させた。象昇は上言した。「賊が跳梁してから兵を出し、賊が増えてから兵を増やすのは、後手に回るやり方です。兵が到着してから兵糧のことを論じ、兵を集めてから軍餉を請求するのは、危険極まりないあり方です。うえに、軍餉が十分に行き渡らなければ、兵士たちは賊に従って寇となるでしょう。これでは八年来、求め続けてきた兵はみな賊の仲間であり、費やしてきた糧食はみな盗賊の食い扶持にほかなりません」と。また、「総督と総理には専門の部隊と軍餉が与えられるべきです。鹹寧・甘粛・固原の兵を総督に、薊州・遼東・山海関・寧遠の兵を総理に属けられますよう」と述べた。さらに、「各省の巡撫はみな封疆の重任を負っています。賊の警報があるたびに、いたずらに援軍を求め兵の派遣を請うようなことがあってはなりません。断れば呉・越のような遠隔地扱いをされ、分割して応じれば国全体が支えきれません」と述べた。また、「台諫の臣たちは、事の難易を問わず、死生を省みず、ただ完璧を求めて責めるばかりです。どれほどの長材があっても、いったいどこに手腕を振るえましょう。私と督臣には、包囲して堵ぐ策もなく、守りを固める戦法もなく、ただ討って戦うのみであります」と述べた。これらの言は、いずれも時宜にかなっていた。[8]

おりしも高迎祥は廬州を囲んだが落とせず、手分けして含山・和州を陥れ、滁州へ迫った。象昇は総兵祖寛・遊撃羅岱を率いて滁州を救援し、城東の五里橋で大戦して賊の首領・揺天動を斬り、その駿馬を奪った。賊の連なる陣営は総崩れとなり、北へ五十里追撃すると、朱龍橋から関山に至るまで、死体が溝や堀を埋め尽くし、滁水の流れが止まった。賊はそこで北の鳳陽へ向かい、寿州を包囲し、潁州・霍邱・蕭・碭山・霊璧・虹を突き、曹・単を窺った。総兵劉沢清が黄河を守って拒むと、賊は考城・儀封を掠めて西へ向かった。亳州に侵入した一隊は、向きを変えて帰徳へ入った。永寧総兵官祖大楽が邀撃すると、賊は北方の開封へ向かい、陳永福がこれを朱仙鎮で破ったため、賊は登封へ走り、他の賊と合流して、二手に分かれて裕州・南陽へ向かった。象昇は祖寛・祖大楽・羅岱の兵をあわせて七頂山で大破し、李自成の精鋭騎兵をほぼ全滅させた。その後、南陽に駐屯して祖大楽に汝寧を、祖寛に鄧州を守備させ、自らは諸軍を率いて賊を追い詰めた。湖広巡撫王夢尹と鄖陽撫治宋祖舜に使いを送り、「賊は疲弊しております。東西から邀撃すれば、前面には漢水という障壁があり、一戦で殲滅できます」と告げたが、この二人はついに防ぎきれず、賊は光化から密かに漢水を渡って鄖陽へ侵入した。象昇は総兵秦翼明・副将雷時声に南漳・谷城から山に入って賊を討たせた。祖寛らの騎兵は険しい地形に不向きで、副将王進忠の軍は騒動を起こし、羅岱・劉肇基の部隊には逃亡者が相次ぎ、追おうとすれば弓を引き絞って自軍に向けてきた。象昇はそこで四川や筸子などの土司兵を動員し、均州の賊を捜索させた。このとき、楚・河南の賊および迎祥らは、いずれも陝西・湖北・四川の境に連なる万山のなかに潜んでいた。象昇は南陽から襄陽へ兵を急行させたが、賊が多く味方は少なく、しかも河南では大飢饉が起こり、軍餉も乏しく、北方からの兵士はますます動揺した。洪承疇と象昇は協議し、関中は平坦で開けており騎兵に有利であることから、祖寛・李重鎮の軍を陝西へ向かわせ、襄陽・均州・宜城・穀城・上津・南漳一帯は、周囲の山々に賊が充満していると判断した。七月、象昇は淅水を渡って南へ進み、九月、賊を追って鄖西へ至った。[9]

京師が戒厳されると、入衛の詔が下り、再び尚方剣を賜った。象昇が出発すると、賊はその後大いに跳梁し、もはや再び制御しがたいまでに勢いを増した。戒厳が解かれたのち、詔により兵部左侍郎に転じて、宣府・大同・山西の軍務を総督することになった。大いに屯田を興し、穀物が実って一畝に一鍾の収穫があり、二十万余石の粟を蓄えた。天子は九辺に宣府・大同のやり方に倣うよう諭した。[10]

翌年の春、宣府に警報が届くと、その夜のうちに天城へ駆けつけた。矢のような緊急文書が飛び交い、二百里先まで乞炭部の騎兵が闊歩し、馬蹄に蹴立てられた砂塵が四十里に及んでいるという。象昇は「これは大挙して攻めて来るつもりだ」と言い、「すでに関内へ入ったか」と問うと、「まだです」と答えた。象昇は「おそらく西のかた雲州・山西を窺おうとしているのだ。こちらの兵を宣府に集結させ、その虚に乗じて入ろうというのであろう」と述べ、雲州・山西の兵には動かないよう布告し、みずから軍を率いて右衛に駐屯し、辺将たちに軽挙に戦わぬよう戒めた。一か月が経過したころ、象昇は「敵は緩んでいる。打つべき時だ」と言った。斥候が、敵の三十六営が辺境の壁から六十里の所に離れて駐屯しているのを探知すると、密かに雲州の軍を西から、宣府の軍を東から呼び寄せ、自らは兵を督して直ちに出撃し、羊房堡から討って出て、日を定めて激戦を挑んだ。乞炭はこれを聞いて逃げ去った。象昇が陽和にあるあいだ、乞炭はあえて辺境に近づこうとはしなかった。五月、父の死に遭い、十度にわたって上疏し、帰郷して喪に服すことを請うた。このとき楊嗣昌は奪情によって中枢の要職に就いており、同じく陳新甲も喪中に起用して軍務に当たらせ、象昇にも席喪、すなわち喪に服しながら現職に留まって後任を待つよう命じた。象昇は兵部尚書に進んだが、新甲は遠隔地に居り、すぐには到着しなかった。[11]

九月、大清の兵が墻子嶺・青口山に侵入し、総督呉阿衡を殺し、正関を破壊して、営城石匣に達し、牛欄山に駐屯した。朝廷は宣府・大同・山西の三総兵である楊国柱・王朴・虎大威を召して入衛させ、三度、象昇に尚方剣を与え、天下の援兵を総督させた。象昇は麻の喪服に草履のまま、郊外で誓師し、飛疏して次のように報じた。「臣は軍事の才ではありませぬが、愚直な心で職に当たり、道義として難を避けるつもりはございませぬ。しかし、父が急逝してより、長途の旅で心身ともに傷み衰え、感覚もかつてのようにはまいりません。くわえて、不服の身で三軍の上に立つことは、外見上の威儀が整わぬばかりか、軍令が霊験を失うことを恐れております」。やがて総監の宦官である高起潜もまた喪服を着けて軍中に現れたと聞き、象昇は近しい者にこう語った。「われら三人はみな不祥の身である。人臣は父を失って、もはや君にのみ仕える身だ。枢輔の楊嗣昌が奪情されたからといって、私にもその変礼を強いて、ともに過ちを分とうというのか。こういう了見でいては、とうてい共に君に仕えることなどできぬ。いつか必ず面と向かって詰問してやる」。当時、嗣昌と起潜は和議を主張していた。象昇はそれを聞き、地団太を踏んで嘆いた。「私は国恩を受けながら、死に場所すら得られぬことを恨めしく思う。万一のことがあれば、むしろこの身を投げ出し、首を斬られるのみだ」。都に着くと、帝に召し出され、方略を問われた。象昇が「臣は主戦でございます」と奏上すると、帝の顔色が変わり、しばらくして「撫は外廷の議論にすぎぬ。出て嗣昌・起潜と協議せよ」と言った。退出して二人と協議したが、意見は合わなかった。翌日、帝は一万金を賜って軍を労った。嗣昌はそれを届けに来たが、左右の者を遠ざけ、軽々しく戦をしかけぬよう戒めて去った。軍が昌平に着くと、帝はさらに宦官を遣わして内帑金三万を賜い、軍を労った。その翌日には、御馬百頭、太僕寺の馬千頭、銀鉄鞭五百挺を賜った。象昇は言った。「なるほど外廷の議論に過ぎなかったのだ。帝の御心は、まことに戦うことに傾いておられる」。そこで決戦の策を固めたが、しかし多くのことが嗣昌・起潜の妨害にあった。分兵を上疏すると、宣府・大同・山西の三総兵は象昇に、山海関・寧遠などの諸軍は起潜に属させることと決まった。象昇は名目上、天下の兵を総督しながら、実際の兵力は二万に満たなかった。順義に駐屯した。[12]

これより先、盲で占いを業とする周元忠という者がおり、遼東人との折衝を得意とし、しばしば講和の使者として遣わされていた。ちょうど嗣昌が軍中にやって来たとき、象昇は彼を責めて言った。「文弱、そなたは城下の盟が『春秋』において恥辱とされるのを知らぬのか。なのに毎日のように媾和に奔走している。都では人々の口舌が刃物のように鋭く、袁崇煥の二の舞を免れられようか」。嗣昌は顔を赤らめ、「あなたはその尚方剣で私を斬ろうというのですな」と言った。象昇は「私は喪にも服せず、戦いもできぬ。剣の錆となるべきはこの私であって、どうして人を斬れようか」と返した。嗣昌は詰まって立ち去った。象昇はまた言った。「周元忠が講和の話をまとめようとしていることは、昨日今日の話ではない。事は薊門の督監に始まり、兵部が引き継いで成案とし、国中みな知っていることだ。誰が隠しおおせようか」。嗣昌は言葉に窮して去った。数日後、安定門で起潜と会見したが、それぞれが異なる主張を抱えていた。陳新甲も昌平に到着し、象昇は兵を分けて与えた。この時、象昇はみずから馬歩軍を率いて都城の外に陣営を連ね、衝鋒陥陣し、軍規はきわめて厳正であった。[13]

大清の軍は南下し、三路から進んだ。一つは淶水から易州を攻め、一つは新城から雄を攻め、一つは定興から安粛を攻めた。象昇は涿州から保定へ進んでこれに拠り、諸将に分かれて出撃するよう命じ、慶都で大戦した。編修の楊廷麟は上疏して言った。「南仲(主和派)が内にいれば李綱(主戦派)は功を立てられず、潜善が政柄を握れば宗沢は無念の死を遂げる。国にこのような人物がいれば、疆土の幸いではありませぬ」。嗣昌は大いに怒り、廷麟を兵部主事に左遷して行営の賛画とし、象昇の尚書の職を奪い、侍郎として職務を行わせた。大学士劉宇亮を輔臣として督師させ、巡撫張其平は象昇への軍餉の道を断った。まもなく雲州・山西の警報を名目に出関を促し、王朴はそのまま兵を率いて去った。[14]

象昇は敗残の兵を率いて三宮の野外に宿営した。畿南三郡の父老たちはこれを聞きつけ、こぞって軍門に詣でて懇願した。「天下が騒然としてすでに十年近く、明公は万死を出でて一生を顧みない覚悟で、天下の先頭に立たれました。しかるに奸臣が内におり、孤忠が妬まれております。三軍は出関を命ずる檄をたずさえ、将士は故郷へ帰ろうと望みながら、こんな寂れた野に身を寄せ、満足な食事にもありつけませぬ。兵士たちがかぶとを脱いで狂乱する騒ぎは、雲軍ですでに起こったと聞きます。明公、私どもの愚かな計略をお聞き届けくださるなら、軍を広順へ移し、義兵を募られますよう。三郡の子弟は公の来訪を喜び、かつては公がなければ賊に殺され、今は公がなければ兵に殺されようと、心を一つにし力を合わせて、ひとたび呼びかけがなされれば、食糧を携えて従う者は十万にのぼりましょう。独りぼっちで援けもなく、立ちながら死に就くのと比べて、どちらが優れておりましょうか」と。象昇は涙を流して父老たちに言った。「皆様の義には胸を打たれます。とはいえ、私が賊と戦って以来、数十、百を数える戦いで、いまだかつて敗れたことはありませぬ。今は疲れ切った五千の兵士を分け与えられ、大敵が西から突入し、援軍は東に隔てられ、事は朝廷の中枢によって抑えつけられています。食糧は尽き、力は窮まり、死は旦夕に迫っております。あなたがたをいたずらに巻き添えにはできませぬ」。人々は雷がとどろくように号泣し、めいめいが床下にしまっておいた一斗の粟や、ある者は一升の棗を差し出して、「これを煮て兵糧にしてください」と言った。十二月十一日、軍を進めて鉅鹿の賈荘に至った。起潜は関寧の兵を擁して鶏沢に陣取り、賈荘まではわずか五十里ほどと近かったが、象昇が楊廷麟を使に出して援軍を乞うても、応じなかった。軍が蒿水橋に差しかかると、大清の軍と遭遇した。象昇は中軍を率い、虎大威は左翼、楊国柱は右翼を受け持ち、そこで戦闘となった。夜半、觱篥の音が四方に起こった。明け方、騎兵数万が三重に包囲した。象昇は兵を指揮して奮戦させ、喊声は天を震わせた。辰の刻から未の刻にいたるまで戦い続けたが、砲弾と矢は使い果たした。象昇は自ら身を挺して戦い、後続の騎兵も突入して、手ずから数十人を殺したが、全身に四本の矢と三つの刀傷を受けてついに倒れた。掌牧の楊陸凱は、兵士がその遺体を損なうのを恐れてその上に覆いかぶさり、背中に二十四矢を受けて死んだ。僕の顧顕も殉死し、一軍は全滅した。虎大威と楊国柱は包囲を破ってどうにか脱出した。[15]

起潜は敗戦を聞くと慌てて逃げ出し、象昇の死にざまを報告しなかった。嗣昌はこれを疑い、死状を検分させる詔が出た。廷麟は戦場でその遺体を発見した。麻の喪服に白い網巾をつけたままの姿だった。ひとりの兵卒が遠くから見つけるなり、「これが我らが盧公だ」と号泣した。三郡の民はこれを聞くと、声もなく慟哭した。順徳知府の于穎が死状を報告したが、嗣昌はわざと時間を引き延ばし、遺体が収められたのは八十日も経ってからであった。翌年、象昇の妻王氏が恤典を求め、さらに翌年、弟の象晋・象観も願い出たが、許されなかった。長い時が経ち、嗣昌が失脚したのち、朝臣たちが盛んに言上する者がおり、ようやく太子少師・兵部尚書を追贈され、祭葬を賜り、世襲の錦衣衛千戸が与えられた。福王の時に忠烈と追諡され、祠が建てられて祀られた。[16]

評価

明史』:盧象昇は崇禎帝の時代にあって、まさに世に稀なる奇才ではなかったか。それなのに、いたるところで抑えつけられ排斥され、ついには死に追いやられた。これはいったい何故なのか。[17]

計六奇:盧象昇が戦死するに至った原因は六つある。一に楊嗣昌と意見が合わなかったこと、二に高起潜と折り合いが悪かったこと、三に弱をもって強に当たったこと、四に寡をもって衆を撃ったこと、五に兵糧がなかったこと、六に援軍がなかったことである。そして、後ろの五つはすべて楊嗣昌の奸険な策謀によって引き起こされたものである。とはいえ、一時の間に盧象昇の肉体を死に至らしめたのは楊嗣昌であるが、盧象昇の名節を千古に伝えしめたのもまた楊嗣昌である。君子はみずからの身を正しく保てばよいのであって、小人の過ちを追及するには及ばないのである。[18][19]

蔡東藩:清軍が国境を破って侵入し、朝廷から王を守るべしとの勅命が下ったというのに、張鳳翼や梁廷棟の連中は、国を治め世を救う才覚などまるでなく、ひたすら尻込みするばかり。各軍鎮もまた、多くはただ見ているばかりで動こうとせず、救援に駆けつけたのは、ただ一人の義士盧象昇と、一人の傑出した女丈夫秦良玉だけであった。象昇の忠義はもちろん確かなものであるが、同じ時代には他にもそうした人物がいる。ただ良玉のような人物に至っては、実にまれであり、そう多くはいない。それゆえ、特に筆をとってこれを称揚するのは、女子のために誇りを示すとともに、男子に恥じ入る思いをさせるためでもある。心ある者が筆を執って史書を記すときには、もとより、いい加減なことを書いたりはしないものである。[20]

人物・逸話

象昇は若くして大志を抱き、学問は章句にとらわれなかった。官に在っては下級の吏よりも勤め励み、夜は蝋燭を刻み、鶏が鳴けば身支度を整え、ひとたび重要な案件を得ればすぐに起き上がって実行に移した。余暇には射を競い、矢先が花に届くほどの腕前で、五十歩の距離から発すれば必ず的中させた。才能を愛で部下を惜しむことは、何事も及ばぬかのようであり、三度尚方剣を賜りながら、ついぞ一人の部下将校も処断したことはなかった。[21]

高平知県の侯弘文は、奇抜な人物であった。襄陽に寓居し、家財を投げ打って雲南の兵を募り、象昇に従って賊を討った。象昇が宣・大へ移ると、弘文は募兵を率いて楚にやって来たが、巡撫王夢尹が駅站を騒がしたと上聞した。象昇は上疏して救おうとしたが及ばず、弘文はついに辺地へ流罪となった。天下はこれにより弘文を惜しみ、そして象昇をいっそう敬った。[22]

象昇は駿馬を好み、どれにも名前があった。かつて南漳で賊を追って敗れ、沙河に追い詰められたことがあった。川幅は数丈あったが、一躍して飛び越えた。それがすなわち、名にいう五明驥であった。[23]

象昇が戦没した際、嗣昌は三人の斥候を派遣して死にざまを探らせた。その一人の兪振龍という者が、帰ってきて「象昇は確かに死にました」と言った。嗣昌は怒り、彼を三日三晩むち打ち、死に臨んで振龍は目を見開いて言った。「天道は神明である。忠臣を枉げることはない」。これを聞いた天下の者は、歎かぬ者とてなく、ますます嗣昌を恨んだ。[24]

伝記資料

  • 明史』巻261 列伝第149

脚注

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