真壁仁
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山形県山形市宮町に農家の長男として生まれる。本名は真壁仁兵衞[1]。市立高等小学校卒業。尾崎喜八、高村光太郎に師事する。1932年、第一歌集『街の百姓』を上梓、以後、農業や農民の真実を追求する詩集、また評論を刊行。農民文学懇話会『地下水』を主宰。
貧しい百姓の開放を願い農民組合を結成し、以来、生涯に渡って対社会的な活動に身を置く。このため、戦前には生活綴方事件で検挙される。 戦後は、思想的に上原専禄の影響を受け、山形が豊かで誇れる地域になることを願って文化と芸術、教育と政治の分野に渡って活躍。とりわけ青年や婦人の運動に理解と援助を惜しみなく続けた[2][3]。
31歳のとき初めて、黒川能を見て以来、研究と調査に半生を捧げ、この能を世に紹介した功労者の1人である。他に県内50余校を超える小中高の校歌作詞も手掛けた[3]。
1959年の参議院議員山形地方区の補欠選挙に日本社会党公認で立候補したが落選した[1][4]。
1972年、金日成首相の還暦に合わせて訪朝し、金の還暦を祝う詩「ペクトウの峰」を執筆した[5]。この詩では、金を崇高な「ペクトウの峰」(白頭山)になぞらえ、その「勇気と決断」を讃美している[6]。
晩年は東北は遅れた不毛の地ではなく、むしろ列島文化の中心でもあったとの仮説を唱え、東北復権の主張を骨太に訴えた[3]。
1984年1月11日、死去。76歳没。没後その志を顕彰すべく「真壁仁・野の文化賞」が創設されたが[7]、活動資金難などを背景に2019年度で打ち切りとなった[8]。