真壁秀幹 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 南北朝時代から室町時代前期生誕 康暦2年/天授6年9月8日(1380年10月6日)死没 応永31年3月17日(1424年4月16日)別名 小次郎 凡例真壁 秀幹時代 南北朝時代から室町時代前期生誕 康暦2年/天授6年9月8日(1380年10月6日)死没 応永31年3月17日(1424年4月16日)別名 小次郎官位 掃部助、安芸守幕府 室町幕府主君 足利義持氏族 真壁氏父母 父:真壁顕幹、母:不詳兄弟 顕幹、景幹、泰幹子 慶幹、氏幹、女子テンプレートを表示 真壁 秀幹(まかべ ひでもと)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての常陸の武将。 応永11年(1404年)12月15日に父から家督を譲られる[1]。足利義持と足利持氏の室町幕府と鎌倉府の対立の際には義持に味方している。 応永29年(1422年)、秀幹は隣の領主である小栗満重とともに下野の中村城に攻め入るも、中村城主の中村家長・綱長、伊達持宗の連合軍に敗退した[2]。 翌、応永30年(1423年)2月26日に義持から常陸真壁郡の所領安堵を受けた[1]。これを受けて秀幹は、小栗満重とともに足利持氏を討つべく挙兵するが、足利持氏が伊達持宗や中村家長・綱長らを率いた[2]討伐軍の攻撃を受け、同年8月2日に小栗城と真壁城が同時に陥落して、満重は滅亡した(小栗満重の乱)。 真壁氏は滅亡を免れたものの所領の多くを持氏に奪われたとみられる[3]。翌年に死去[1]。享年45。家督は子の慶幹が継いだが、持氏に追討されて消息不明となる[4]。 庶子(慶幹の異母兄と推定)に戦国時代に活躍した「鬼真壁」こと氏幹と同名の息子がおり、一族庶家とともに再興を目指すが、足利持氏に降って真壁氏の当主と認められた真壁朝幹(秀幹の弟である景幹の子とされる)と対立し、真壁氏は内紛状態となった[4]。 脚注 1 2 3 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、p.569 1 2 野州中村神社縁起 P11 ↑ 杉山一弥「室町幕府と常陸〈京都扶持衆〉」『室町幕府の東国政策』思文閣出版、2014年、296-297頁。ISBN 978-4-7842-1739-7。 1 2 清水亮「南北朝・室町期の常陸国真壁氏の惣領と一族」『地方史研究』277号、1999年。 /所収:清水亮 編『常陸真壁氏』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第一九巻〉、2016年。ISBN 978-4-86403-195-0。 Related Articles