備後国深津郡深津村(現広島県福山市東深津町)で庄屋の家に生まれる[1]。
慶応元年(1865年)閏5月、家督相続し深津村庄屋を拝命する[1][3][2]。同年6月備後福山藩御用達となり 、明治2年(1869年)福山藩下議員として公議所に出仕する[1][3][2]。
明治3年(1870年)、深津村長尾寺内に郷校䕜松館を設置し、近郊の有志を集め漢学を学ばせる[3]。明治4年(1871年)藩内で啓蒙所設立に際し賛同し、周旋方として長尾寺内に深津啓蒙所(現福山市立深津小学校)開設に尽力した[3]。啓蒙所開設にあたり深津村では87口出資を集めたが、そのうち石井は15口出資し、のちに自身の所有地に啓蒙所校舎を建てている[3]。明治6年(1873年)小田県学区取締拝命[1]。
1873年(明治6年)小田県第二大区(深津郡)区長に就任、1877年(明治10年)区長を辞任[1][3]。
1879年(明治12年)4月26日第1回広島県議会選挙にて深津郡選出議員となる[1][2]。同年5月1日第1回県議会通常会で初代議長となる[1][2]。同1879年、福山師範学校が廃止となり新たに県立中学校が創設されることになり、広島県福山中学校(広島県立福山誠之館高等学校)が創設され、石井は初代校長に就任する[1][3][2]。なお創設にあたり義倉社などの慈善団体から寄付を受けたが、そこから義倉社の役員も務めていた石井が中学校創設を推進していたと見られている[1]。
1880年(明治13年)7月26日県議会議長を辞任[1]。同年10月福山中学校校長を退任[1]。同年11月県議会半数改選の抽選により県会議員を退任[1]。(その後再選されたものの病気を理由に辞退している[1])。
その後、深津郡農会会長(1896年-1909年)、広島県農工銀行頭取(1898年-1909年, 1920年)、深津郡郡会議員(1900年-1903年)など歴任した[1][2]。