石原喜久太郎
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1872年10月27日(明治5年旧暦9月25日)、島根県意宇郡二子村[4](現在の松江市八束町二子)で石原庄太郎の次男[5]として生まれた[2][3]。父庄太郎は士族で、警察官を務めていたが裕福ではなかった[4]。
1887年(明治20年)、旧制松江中学校に入学。同期に大谷繞石(正信)がいた[4]。ラフカディオ・ハーンに英語を学び、生徒の中でも大谷とともに特にハーンとの親交が深かった。『知られぬ日本の面影』でハーンは石原を称賛し、また石原との問答を収録している[6]。1892年(明治25年)7月に松江中学校を卒業[4]。
その後上京し、1897年(明治30年)7月に第一高等学校第三部医科を卒業[7]、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)に入学する[2][3]。1901年(明治34年)に卒業後は[2][3]、緒方正規の指導を受けながら母校で助手として教鞭を執った[2][3]。1904年(明治37年)には侍医局に転勤し御用掛を務め[2][3]、1908年(明治41年)に助教授として東京帝大に開基する[2]。1916年(大正5年)に医学博士の学位を授与された[5]。
1919年(大正8年)には教授に昇格し[1][2]、その後は伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の技師を兼任した[1][3]。同大学および同研究所に勤務中は衛生学および細菌学を専門として[1]、その第二講座を担当し鼠咬症等の研究に携わる[2][3]。後に黴菌学の講座も担当し[2]、文部省における学校衛生取調嘱託として同大学に勤務する教員に結核の感染検査も行った[3]。1932年(昭和7年)に退官[5]後は、千葉医科大学の講師も務めた[8]。
1944年(昭和19年)6月12日、腎臓病のため茨城県北浦の次男・久米雄宅で死去。享年73(満71歳)。同月18日に東京都中野区の自宅で葬儀が行われた[8]。