石原磊三
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広島県御調郡美郷村(現・尾道市)にて、平民・石原定七の二男として生まれる[1]。母はタツ(実政元助の二女)。1901年(明治34年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年11月に高等文官試験に合格した。翌年、埼玉県属に任ぜられ、以後、富山県・岩手県・石川県・愛知県などで事務官・内務書記官を歴任した。
1906年(明治39年)7月には、岩手県第二部長として着任直後に難航していた盛岡市の小学校敷地問題を解決したことが記録されている[2]。また地元富豪からの請託を断固拒否し、職務の公正を保った逸話が伝わっている。
その後、愛知県内務部長を経て、1914年(大正3年)5月に警視庁官房主事に任命され、行政改革と職員教育に尽力した[3]。部下の教育には厳格で、忠誠心と勤勉を説いたと伝えられる。
晩年は体調を崩し、1916年(大正5年)8月12日午前2時、郷里の美郷村で死去した。享年43(満42歳没)。死去に際して西久保弘道警視総監らが追悼の辞を寄せている[4]。墓所は青山霊園。
尾道出身の法学士として知られ、在官中は廉潔かつ迅速な行政処理で評価を受けた。特に岩手県での活躍は広く称賛された[2]。また、民俗学者柳田國男とも交流があったとされる。