石君立

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石 君立(せき くんりつ、生年不詳 - 923年)は、末から五代十国時代にかけての軍人。石家財[1]、石家才[2]、石嘉才[3]とも書かれた。本貫趙州昭慶県[1]

はじめ代州刺史の李克柔に仕えた。のちに李嗣昭に属して牙校となり、諸軍の長を歴任した。天祐5年(908年)、夾城の戦いにおいて、君立は戦いを挑んで出るたびに、梁軍の柵塁を壊し、捕虜を得て帰った。天祐8年(911年)、梁軍と龍化園で戦って破り、後梁の大将の卜渥を捕らえて献上した。李嗣昭が出征するたびに、君立はその先鋒をつとめ、敵に恐れられた[1]

天祐13年(916年)、後梁の王檀が晋王李存勗の留守に乗じて太原府に迫った。安金全は市人を動員して城壁に登らせ、防戦にあたらせたが、守りは不十分だった。君立は李嗣昭の命を受けて500騎を率い、潞州を朝に出発して暮に太原府に到着した。王檀は遊軍に汾橋を守らせていたが、君立は一戦してこれを破った。城下に駆けつけて、梁軍の包囲陣に突撃を繰り返し、「昭義侍中(李嗣昭)が大軍でやってくるぞ」と大呼した。この夜に入城し、安金全らと諸門に分かれて出撃すると、早朝に梁軍は敗走した[4]

天祐17年(920年)、君立は兵を率いて徳勝口に駐屯した。ときに梁軍が滑州から楊村寨に糧食を輸送しようとすると、李存勗が自ら騎兵を率いてこれを迎え撃った。梁軍が河曲の潘張村に塁を築いて軍の糧食を貯えたので、李存勗は諸軍に命じてこれを攻めさせた。梁軍が要路に伏兵を設け、偽って敗走したふりをすると、晋軍はこれに乗じて塁門に入り、梁軍の伏兵が起こって、白兵戦となった。君立は梁軍に捕らえられて開封府に送られ、獄に下された。後梁の末帝はかれの勇猛さを聞き知っていたため、将として任用しようと誘ったが、君立は聞き入れなかった。同光元年(923年)、後唐の荘宗(李存勗)が開封府に入る前日、君立は後梁の末帝の命で殺された[5]

脚注

伝記資料

参考文献

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