石守信
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生涯
後周の世宗に親軍として仕えた。顕徳元年(954年)の高平の戦いでは、趙匡胤とともに北漢軍を撃破する大功を立てた。この戦いで後周軍の左翼が崩壊の危機に陥った際、石守信は趙匡胤らと先頭に立って敵陣に突入し、勝利を決定づけた。この功績により、殿前副都指揮使に昇進した。[1]
顕徳7年(960年)の陳橋の変では、殿前司の最高責任者として都の開封の留守を預かった。石守信は城門を開いて趙匡胤の軍を迎え入れ、宋の建国を円滑に進める重要な役割を果たした。建国直後には、李筠や李重進による反乱を主帥として鎮圧し、侍衛親軍馬歩軍都指揮使に昇進した。[1]
建隆2年(961年)の杯酒釈兵権では、趙匡胤の酒宴に招かれ、「陛下のご創業に我々がどうして裏切るものか」と涙ながらに兵権を返上した。以後、天平軍節度使・中書令を歴任した。[2]
晩年と処世術
後世の評価
清代の顧沅が編纂した『古聖賢像伝略』(1830年刊)に肖像が収録されている。これは後世においても、彼が北宋建国の元勲であり、また引き際の鮮やかな賢人として高く評価されていたことを示している。
家族
子に石保吉(北宋中期に武官として活躍)。[1]
