石川七財
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生涯
出生から吉田東洋の下横目に
1828年5月21日(文政11年4月8日)に土佐藩士・石川唯七の子として土佐国土佐郡小高坂村(現・高知県高知市)に生まれる[1]。
幼名は七左衛門。父は馬丁のまま死去[3]し、それを継いで七左衛門も足軽身分として土佐藩に勤務した[3][4]。 やがて吉田東洋に仕えた七左衛門は東洋にその才能を認められ下横目(目付の補佐)となる[5]。1862年5月6日(文久2年4月8日)、33歳の時、東洋が刺客によって殺害された際には犯人探しに当たった[3][5]。
江戸在勤から岩崎弥太郎の部下となる
吉田東洋の死後、江戸に在勤した。その時期、江戸の藩邸で従者の1人が門禁を犯したため厳しく尋問。その夜に寝所を襲われ頬を斬られたという[5]。
1870年(明治3年)、当時九十九商会を営んでいた岩崎弥太郎の内偵を藩から命じられ、大阪へと向かう[3][4]。しかし岩崎弥太郎の人柄に惚れ部下となり、大阪に留まり支店長となる[2][3]。この頃に七左衛門から七財へと名を改めている[5]。
三菱商会へ
1872年(明治5年)正月、九十九商会を解散し、同期の中川亀之助(森田晋三)、川田小一郎らの名にちなんで三川商会へと名を改めた[6][7]。
しかし翌年の1873年(明治6年)3月、弥太郎が独裁体制に入ったため三菱商会と改名。それまで弥太郎の事を「旦那」と呼称していた幹部らも「社長」と呼ぶようになった[6]。
台湾出兵と西南戦争
1874年(明治7年)明治政府は台湾への出兵を決定し、三菱は軍事輸送を担った。その際に七財は配船を仕切った。その後も大阪で海運会社との競争を指揮した[3]。

前列左から石川七財、岩崎弥太郎、川田小一郎、フレデリック・クレブス