陸奥国河沼郡野沢(現・福島県耶麻郡西会津町)の石川市十郎の三子。1873年(明治6年)に横浜の高島学校で英語を学び、1874年(明治7年)には東京に出て慶應義塾に入り、尺振八とも関係を持った(『慶應義塾入社帳第一巻』742頁)。大蔵省に入り、銀行局御用掛となる[1]。のち病のため退官し、田口卯吉が主催する、『東京経済雑誌』の創刊当初より助けてその編集にあたり、社説を起草した。その他、医師の渡部鼎と共に婦人束髮会を組織し、明治女学校設立の功労者となるなど、黎明期日本の教育と文化に大きな足跡を残した。しかし1886年(明治19年)、結核により29歳で早世した。