石川準十郎
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岩手県盛岡近郊に生まれた石川は、日清戦争の戦災者の関係者として成長し、兄・石川金次郎の援助の下、早稲田大学政経学部に入学。在学中に高畠素之の知遇を得[1]、以後、高畠門下として国家社会主義運動に没頭した。高畠の死後も国家社会主義理論を発展させ、1931年に赤松克麿、津久井龍雄らとともに日本社会主義研究所を創設、『日本社会主義』『国家社会主義』を刊行。次いで日本主義に傾倒した赤松らと袂を分かち、1934年(昭和9年)3月10日、大日本国家社会党を設立、総理(党首)となる[2]。 同党は右翼政党としては珍らしく、大日本労働組合協議会なる労働組合を支持母体としていた。後、『満州新聞』の顧問として渡満。朝鮮北部定州にて敗戦を迎える。占領軍に公職追放を受け、主として右翼の論客の一人として活動した。1949年の公職追放解除の後、早稲田大学政経学部の教授に就任し、1962年まで務めた。石川の与えた影響は決して大きいものではなく、常に孤立的活動を余儀なくされていた。
石川は日本に最も早くナチスを紹介した人物として知られている。彼は人口稠密(ちゅうみつ)、領土狭小なる日本やドイツが、アングロサクソンの独善的観点から作られた世界秩序を克服すべく、第二次世界大戦が引き起こされるのは当然であると考えた。その観点からも、日中戦争は不賛成となるが、対米戦争(石川によれば大東亜戦争)は賛成となる。石川のナチス分析もこのような、ある種の社会主義的進歩史観、乃至政治観からなされていた。