石束毎雅

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石束 毎雅(いしづか つねまさ、元禄13年(1700年) - 宝暦2年5月22日1752年7月3日))は、江戸時代中期の武士豊岡藩京極家の筆頭家老だったが、藩主京極高永と対立を深めて藩を去った。父は石束毎明。母は中谷高房の娘。子に石束毎貴。通称は、一学(いちがく)、源五右衛門(げんごえもん)、宇右衛門(うえもん)。

父毎明から豊岡藩筆頭家老職を受け継ぎ、また前藩主京極高住の娘万里姫を妻に迎えたが、当代藩主・京極高永とは藩政改革を巡って対立を深め、延享4年(1747年)に家老を辞して豊岡藩を去ることになり、従兄弟にあたる広島藩大石大三郎(大石良雄の子・良恭)のもとに身を寄せた。

豊岡での殖産に熱心だった[1]毎雅は女色に溺れる良恭ともウマが合わず広島から追放され、京都に住み清貧な隠遁生活を送るが父に先立ち宝暦2年(1752年)に死去。京都の妙心寺に埋葬された。芳名は馨徳院殿立所?伯居士。結果論だが広島を追われたことで、昭和20年(1945年8月6日原爆投下で父・毎明および叔母・大石りく、迫害した石束大石氏(広島藩で断絶した後の横田大石氏の墓は泉岳寺にある)のような埋葬墓の全焼全壊は免れ、妙心寺で現在も眠る。

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