石橋和義
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尊氏死後
多々良浜の戦いが起きた1336年に山陽・山陰の国人らに軍勢催促状を発し、足利尊氏西走の際に備前国三石城にて、城主として新田勢の猛攻をしのぎ、尊氏の西下・東上を助けた。播磨国白旗城に籠城した赤松則村(円心)と共に、尊氏の捲土重来を支えた最大の功労者と言える。
建武4年(1337年)正月から同5年正月頃まで、「南都大将」として、奈良の警固にあたっている[4]。同年3月〜4月頃、伯耆国守護を務めた[4]。
1338年に若狭国守護斯波時家の加勢のため赴き、この頃に左衛門佐に任官された。1339年から1年余り備後国守護として赴任。暦応4年(1341年)から室町幕府引付頭人に就任。康永元年(1342年)から官途奉行を務めた[5]。同職は直義が管轄しており、直義との関係がうかがえる[5]。1345年、正五位下、1351年、従四位下。
観応元年(1350年)、尊氏らは、足利直冬を討つため備前国福岡に到るが、直義挙兵の報を聞き、和義を残して帰京した[6]。翌2年(1351年)4月、和義も帰京した[6]。その後、尊氏・直義の和睦を経て、両者が再び決裂する中、7月29日、突然出家し、「入道心勝」と称した[6]。
観応3年(1352年)、直義死去。同年、直冬や南朝方の山名氏が備前国鳥取庄などに侵攻すると、和義は「大将」「武家方大将軍」として出撃した[7]。
1352年から1357年まで再び引付頭人を勤め、尊氏が鎌倉に在した時は足利義詮を補佐し、幕府の宿老として評定衆筆頭にまで昇りつめた。
延文3年(1358年)4月、尊氏死去。同年6月、尊氏への贈位贈官につき、義詮の代理として参内。通常、足利一門は天皇に拝謁できないため、洞院公賢は「一族として参上御対面は常儀にあらず」と評した(『園太暦』)[8][9]。
康安元年(1361年)10月、若狭国守護に就任[9]。その後、同族の斯波高経と対立。貞治2年(1363年)8月、若狭守護を解任され(後任は高経)、幕閣の中枢からも外れた[10]。
しかし高経失脚と共に復権。1370年から子の棟義を援けるため、奥羽に赴き、永徳元年(1381年)頃まで在国の痕跡を残す[10]。和義は80歳前後まで存命だったようである[11]。
和歌
和義は歌人でもあった[12]。
- 聞くだにも、あや(危)ふき淵の薄氷、臨むに似たる、世を渡る哉