石野瑛
From Wikipedia, the free encyclopedia
|
「石野瑛氏肖像」『武相研究印象記:石野瑛氏還暦記念誌』武相文化協会(1949年)口絵より | |
| 人物情報 | |
|---|---|
| 生誕 |
1889年4月21日 福井県坂井市(旧坂井郡丸岡町) |
| 死没 |
1962年12月5日(73歳没) 神奈川県横浜市 |
| 国籍 | 日本 |
| 出身校 | 早稲田大学 |
| 学問 | |
| 活動地域 | 日本 |
| 研究分野 | 考古学・歴史学 |
| 主な業績 | 沖縄県・神奈川県内の歴史学・考古学的研究、武相中学校・高等学校創設 |
石野 瑛(いしの あきら、1889年〈明治22年〉4月21日 - 1962年〈昭和37年〉12月5日[1])は、日本の教育者・歴史学者・考古学者。福井県出身。神奈川県横浜市に武相中学校・高等学校(学校法人武相学園)を創設した[2]。
現在の福井県坂井市にあたる旧坂井郡丸岡町に生まれる。15歳で岐阜県内の郵便局に就職するが、教育者になることを志して教員資格を取得し、一家で神奈川県横浜市に転居する[2]。
1905年(明治38年)、17歳で三浦郡葉山町の小学校教員となるが、自らも教養を高めるべく神奈川県尋常師範学校に通う[2]。1911年(明治44年)に同師範学校を卒業し、神奈川県立旧制横浜小学校の教員(訓導)となる[2]。
1914年(大正3年)、25歳の時に沖縄県に招聘され那覇天妃(てんぴ)小学校の校長となる[2]。沖縄赴任時代には琉球史等を研究し『琉球大観』[3]や『琉球大観 -南島の自然と人-』を執筆した。
沖縄赴任中、保育士資格を持つ石野の母が切望していた保育園設立を支援し「横浜金港幼稚園」を創設する[2]。
沖縄勤務の後、28歳となった1917年(大正6年)、あるいは32歳となった1920年(大正9年)に早稲田大学文学部史学科に入学し[注釈 1]、1923年(大正12年)に卒業した。在学中、横浜の文化向上を目指して「早稲田大学横浜会」を創設し、1922年(大正11年)には「横浜文化協会」や、考古学の同人会「武相考古会」を設立した[2]。
また学費捻出のため、石野の母の幼稚園(金港幼稚園)の施設を利用して、夜間の「横浜金港実業補習学校」を創設し、校長となった。さらに、捜真女学校の2代校長クララ・カンヴァースを訪ねて同校の講師となることを請願し、採用された[2]。
この後も、県立横浜第二中学校(現・神奈川県立横浜翠嵐高等学校)や関東学院など複数の学校で教員を兼務しつつ、ドーリットル空襲など、アメリカ軍による日本本土攻撃が本格化した最中の1942年(昭和17年)6月に武相学園を設立した[1][2]。
1945年(昭和20年)4月15日空襲により一部の校舎や自宅を焼失し、歴史学研究などの多くの資料を失うが、戦後は同校の再興に努めた。1962年(昭和37年)12月5日死去[2]。
教育者として学校経営や教育活動に携わりつつ、郷土の歴史・考古に関する研究も行い、横浜市磯子区にあった室の木古墳など[4]、神奈川県内の遺跡を調査して、『神奈川縣大觀』[5]や『武相考古』[6]等を発行した。また神奈川県から史蹟名勝天然記念物調査会の委員を委託されるなど、文化財保護活動にも従事した[1]。