磯村建設
昭和時代後期にかつて存在した日本の不動産会社
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株式会社磯村建設(いそむらけんせつ)は、かつて存在した日本の建設会社及び不動産会社である。主に埼玉県大里郡寄居町の東武鉄道東上本線沿線の建売住宅を取り扱っていた[3]。
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駅前に現地事務所があった男衾駅 | |
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 略称 | 磯村建設 |
| 本社所在地 |
〒179 東京都新宿区西新宿1丁目4番9号 新宿⻄ビル(建物は現存) |
| 本店所在地 |
〒176 東京都練馬区北町2丁目35番2号[1] |
| 設立 | 1967年11月11日[2] |
| 業種 | 不動産業 |
| 法人番号 | 8011601026854 |
| 事業内容 | 建売住宅の開発・分譲 |
| 代表者 | 代表取締役 磯村禧久治[2] |
| 資本金 | 5,000万円[2] |
| 売上高 | 48億円 (1984年度) |
| 総資産 | ▲89億円 破産時負債額 |
| 決算期 | 毎年10月末[2] |
| 主要子会社 | 磯村住宅販売、三宝工務店[2] |
| 特記事項:埼玉県大里郡寄居町大字富田1732番地の16に現地事務所があった(建物は「有限会社佐藤製作所」(金属加工業)事務所として現存)。 | |
概要
1967年11月に設立、本社は東京都新宿区西新宿にあった。代表取締役社長は磯村禧久治。子会社に「磯村住宅販売」「三宝工務店」があった[2]。
高度経済成長に伴う大都市の地価高騰と人口急増による住宅不足を背景に土地に余裕のある郊外での住宅開発が極めて盛んで、当時の鉄道路線で東京から90分以上かかる土地でも東京への通勤圏内であると宣伝した宅地開発が行われていた。設立当初は東京都内のマンション分譲販売を主に手掛けていた磯村建設もその流れに乗り、埼玉県大里郡寄居町での大規模な宅地開発に着手する。1970年代後半よりテレビコマーシャルを大量に放映し、販売価格は「1000万円台」を強調、「住宅ローンを組んでも月々の支払い額は賃貸住宅の家賃並みであり、生活に負担をかけないでマイホームが買える」という謳い文句を強調した庶民向けの宣伝戦略を採っていた[1]。
また1975年頃から1985年8月まで、群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原にテニスコートやショッピングストア、レストランや管理事務所も備えた「サンハイツ白樺の里」という名称の別荘地を新聞広告などで精力的に宣伝し、1978年には鉄筋コンクリート造りのホテルのような機能を持った会員制リゾート施設「ビラ軽井沢」を開業するに至った。
1984年には年間48億円を売り上げ、従業員数も75人を数えたが[3]、翌1985年8月23日に二度目の不渡りを出し、89億円の負債を抱え、同年9月17日に破産宣告を受け、設立から18年で倒産した。この際、住宅の購入者がローンを完済しても抵当権が残ってしまうトラブルが発生して約170人の被害者を出し、衆議院大蔵委員会でも採り上げられた[1]。これは、磯村建設が住宅を販売する際に所有権留保で登記したため、本来であれば登記名義人を購入者にするところを“磯村建設所有のままにし、月々の分割代金と固定資産税を磯村建設の子会社である磯村住宅販売に支払う”という仕組みにした結果、抵当権が磯村建設名義となってしまい、磯村建設破産時に大蔵省(当時)に差し押さえられてしまったためである。また、破産した際に建設途中の数多くの住宅の所有権が裁判所の管理下に置かれたため、工事が中断され、建設途中の状態のまま放置されていることも報道された。
後述の通り、1985年9月19日の破産宣告を以て事業の一切が停止されたが、2023年5月(データベース上では6月13日)に清算人を立てて法人格が復活している[4]。個人のYouTubeチャンネルで放棄分譲地の取材を続けている文筆家の吉川祐介によると、無関係の同業他社ではなく、当社と同一の法人である確認が取れているという[5]。
略史
- 1967年11月 - 設立
- 1977年11月5日 - 寄居町における新築住居の引渡しの際、プロパンガスの爆発事故を起こし、入居予定者2名に手指切断等の大怪我を負わせる(のち、破産宣告後の1985年9月24日、プロパンガス業者と共に約6000万円の損害賠償判決)[6]。
- 1985年
- 1989年
- 5月10日 - 宅地建物取引業保証協会の営業保証金相当額が2,500万円(旧法適用分750万円)である旨公告される[9]。
- 12月11日 - 東京地方裁判所昭和60年(フ)第726号破産事件(破産者株式会社磯村建設)の中間配当(労働債権)として、配当に加えるべき債権の総額12,739,697円、配当することのできる金額12,739,697円が配当される[10]。
- 1994年12月22日 - 上記事件の最後配当として、配当に加えるべき債権の総額4,330,608,174円、配当することのできる金額219,561,777円が配当される[11]。
宣伝
関東ローカルでは盛んにテレビCMを打ち、メロディーに乗せて代表電話番号をアナウンスするテレビCMを放送していた。主に夕方の番組(フジテレビのアニメの再放送枠やTBSの『夕やけロンちゃん』)や、昼11時30分スタートのニュース番組枠などで放映されていた。CMの中には中村正がナレーションを務めたものもある。
また、新聞広告でも社名の前に「テレビでおなじみの…」というキャッチフレーズを入れて盛んにテレビCMを打っていることをアピールしていた[12]。
一方で、当時の新興デベロッパーの例に漏れず、美化されたイメージパースや誇大化された数字を積極的に使用しており、新聞を含めた広告出稿量も事業規模と比較して過剰なものであった。
