神保長興は、高三百俵を給される旗本の家に生まれ、本国は越中、生国は武蔵とされる。父は大目付・神保長光(治三郎、佐渡守)幼少期に家督を相続し、将軍近習として幕政中枢に近い位置で昇進を重ねた人物である。
天保3年(1832年)9月6日、家督を相続。天保10年(1839年)1月13日、西丸小納戸となり、同年8月2日には西丸小姓に進んだ。天保12年(1841年)3月23日、小姓に列した
嘉永6年(1853年)9月22日には、将軍徳川家定付の小姓となり、安政2年(1855年)10月3日、使番に転じる。安政3年(1856年)12月9日には火事場見廻を兼ね、安政4年(1857年)12月30日、目付に任ぜられ、勝手掛および外国掛を兼務した。
文久元年(1861年)には、目付であった神保長興は朝鮮来聘用掛に任じられ、外交実務にも関与していた。文久2年(1862年)12月11日、作事奉行に任命され、幕府の建築・普請行政を担う。翌文久3年(1863年)5月8日には騎兵奉行に転じ、軍制改革と軍事行動の指揮にあたった。この頃、小笠原長行が主導した京都武力制圧計画において、長興は騎兵奉行として兵の指揮を担ったとされる。文久3年5月、イギリスから借り入れた汽船を含む艦隊と千数百名の兵を率いて上洛を企図したが、在洛幕閣の反対と将軍徳川家茂の命により計画は中止された。
文久3年11月8日、大目付に昇進。元治元年(1864年)5月30日には宗門改を兼ね、同年6月23日には道中奉行も兼務するなど、治安・宗教・交通行政を広く掌握した。同年8月18日。
慶応元年(1865年)閏5月16日には進発御供を命じられ、将軍の動静に随行した。慶応2年(1866年)10月24日、留守居に転じた。