福地信世
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福地桜痴(明治維新以前は、旗本〈外国奉行支配調役格通弁御用頭取、150俵3人扶持〉)の長男として東京府下谷茅町(のちの東京府東京市下谷区、現在の東京都台東区池之端)に生まれる[2]。下谷小学校、東京府尋常中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)、第二高等学校 (旧制)を経て、1900年(明治33年)に東京帝国大学理科大学地質学科を卒業する[1][2]。
大学院に進んだ後、1905年(明治38年)からは古河財閥の古河鉱業会社に入社し技師となる[1]。古河鉱業へは1931年(昭和6年)まで勤務した[2]。のちに東京帝国大学理学部講師を務めた[1]。満洲国、中華民国、南洋諸島、朝鮮平安北道、東インド諸島などに赴いて地質調査を実施した[1]。
演劇にも通じ[2]、藤蔭静樹・花柳寿輔・花柳寿美の後援者であった。晩年は、舞踊界に関わり国民文芸会幹事、新舞踊会の顧問などを務める[1]。『福地信世遺稿』にその著は収められている。1934年5月22日に没した。56歳没[1]。
1969年(昭和44年)、東京大学の梶原良道により、岩手県花輪鉱山の黒鉱鉱床から発見された新鉱物は、教室の大先輩である福地にちなんで福地鉱(Fukuchilite)と命名された[1]。