福島喜三次
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佐賀県西松浦郡有田村に福島喜平の六男[2]として生まれる。2歳のとき父を亡くす。小学校時代から終始級長を務めるなど秀才で鳴らし、長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)を経て、1904年(明治37年)7月に東京高等商業学校(現・一橋大学)を首席で卒業[3]。同期には星野唯三、園部潜、佐藤尚武、山崎一保、向井忠晴、黒田慶太郎、梁瀬長太郎らがいた[3]。なお、同校では上級の優等生を選び夏季休業中に実地研究を課したが、福島も3年次に選ばれ「清国上海ニ於ケル貨幣事情調査報告書」を提出している[4]。
1904年に三井物産入社。門司支店に配属された後、清国への赴任を希望していたが、1905年(明治38年)3月にニューヨーク支店勤務となり、1906年(明治39年)からは出張員として、オクラホマ州及びテキサス州へアメリカ綿の現地買付に従事[5]。その後、1911年(明治44)年7月に三井物産がテキサス州ヒューストンに設立した現地法人Southern Products Company(南部物産会社)の取締役に就任[6]。1912年(大正元年)には綿花部のダラス支部長となり、第一次世界大戦時の需要の高まりともに、日本のみならずヨーロッパへのアメリカ綿輸出に乗り出して利益を上げたが、終戦後の綿相場の暴落とともに500万円超の巨額欠損を出し[6]、それを機に福島は日本へ戻された[5]。ダラス赴任中、日本人初のロータリアンに推挙された。
1920年(大正9年)5月に本店営業部長代理、1921年(大正10年)3月に大阪支店長代理、1923年(大正12年)7月に同支店次長となる[7]。この間、1920年に東京ロータリークラブを設立し、同初代幹事に就任。大阪ロータリークラブ設立にも尽力し、1922年より同初代幹事を5年間務めた。
1926年(大正15年)8月に上海支店次長として赴任、同年(昭和元年)12月に支店長となる[7]。上海では上海日本商工会議所議員・上海万国商業会議所委員・上海共同租界参事会員も務め[7]、1932年(昭和7年)初頭の第一次上海事変では上海時局委員として対応に追われた。のち、上海事変における功労により勲六等瑞宝章を受勲[8]。
1932年に本店に戻り本部参事、1934年(昭和9年)査業課長を経て、同年に三井合名会社(三井財閥本社)の考査課長兼調査部長に転じ、1936年(昭和11年)には合名会社理事に抜擢された[8]。なお、1935年(昭和10年)12月には、ブラジルへの投資会社アマゾニア産業株式会社(9月設立)の取締役に、上塚司・加藤恭平・矢島富造・佐々田三郎・中島清一郎とともに名を連ねている[9]。
この戦前期には政治にも関わり、国策研究会の第一研究委員会(外交・国際関係)メンバーとなり[10]、1935年9月に岡田啓介内閣の内閣調査局専門委員[11]、1937年(昭和12年)6月には第1次近衞文麿内閣の企画院参与[12]に任命された。
1937年に日本経済連盟会(経済団体連合会の前身)の欧米訪問経済使節団(団長門野重九郎)メンバーとして派遣されたが、過労で結核に倒れ、帰国後に休職・引退、第二次世界大戦後の翌1946年(昭和21年)に没した[13]。