秋好馨
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高千穂中学校(旧制)在学中に、肺結核で2年間休学。その間、『アサヒグラフ』の漫画欄に投稿をしたことがきっかけとなり、漫画家堤寒三の弟子になる[2]。
昭和11年(1936年)、デビュー作品『フレッシュマン新童君』を『東京朝日新聞』朝刊に掲載。翌12年(1937年)、「新漫画派集団」(のちの「漫画集団」)に入る。
昭和16年(1941年)[2][3][注釈 1]、近藤日出造の主宰する雑誌『漫画』で『轟先生』を連載し、好評を博す。昭和24年(1949年)、『夕刊読売』の創刊にあわせて同紙11月27日号で『轟先生』の連載を開始。昭和26年(1951年)9月1日から『読売新聞』朝刊に移動し、病気による連載中断を幾度も挟みながら、昭和48年(1973年)2月27日まで連載を続けた[2][注釈 2]。
その後は、画家として油絵に取り組み、昭和63年(1988年)には個展を開いている[3]。
平成元年(1989年)3月25日、神奈川県鎌倉市の自宅で息を引き取った。死因は、肺がんによる呼吸機能不全[7][5]だった。満76歳没。
作品リスト
- フレッシュマン新童君
- 轟先生
- 自由のメガネ
- 愚亭賢妻
- ますらを派出夫会
- アワモリ君
- のんきなおじさん
- タラちゃん
- 竹野しんぞう君
- 平野凡太郎