秋庭元重
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出自と家督継承
備中守護代・秋庭元明の嫡男として誕生。秋庭氏は相模国の三浦氏(津久井氏流)の流れを汲み、鎌倉時代前期に承久の乱の軍功で備中国有漢郷を拝領し、松山城(大松山城)を築城した秋庭重信(三郎)を遠祖とする名門である。
元重は文明5年(1473年)、細川氏の重臣であった父・元明の隠居に伴い、家督を継承したとされる[1]。
幕府軍としての近江出陣
元重は、室町幕府将軍および守護細川氏の命を受け、幕府の威信をかけた軍事行動に従軍した。
- 長享・延徳の乱(1487年 - 1491年):将軍・足利義尚による近江の六角高頼(佐々木高頼)討伐に従軍。主君・細川政元の軍勢の一員として近江戦線に展開した。
- 政元の発病と快癒祈願:延徳2年(1490年)正月、細川政元が陣中で病に倒れた際、元重ら秋庭氏一族は政元の快癒を祈願したと記録されている[2]。
- 明応の六角征伐(1492年):将軍・足利義材による二度目の六角征伐にも従軍。幕府軍の主力部将として近江に転戦した。これらの動向については、後世の地誌『備中誌』にも記されている[3]。
二条御所警衛と政治的転換
永正5年(1508年)、足利義尹(義稙)が大内義興に擁護されて上洛する際、元重は軍勢催促に応じて参陣。同年6月の義尹入京時には、将軍の居所である二条御所の警衛を担った[4]。
しかし、永正6年(1509年)になると、中央の政治情勢の変化に伴い、足利氏の側近である上野信孝が備中守護代に任じられ、秋庭氏に代わって備中松山城に入った。これにより、秋庭氏は守護代の職を解かれ、元重は本拠地である有漢郷へと戻ったとされる[5]。
信仰と晩年のエピソード
元重は、本拠地である有漢郷の鎮守として鈴岳神社(現・岡山県高梁市有漢町)を建立。同社を秋庭一族および領民の守護神として篤く崇敬した[1]。
一方で、元重の晩年については京都でエピソードも残されている。相国寺の記録である『鹿苑日録』には、天文12年(1543年)当時、90歳を超えてなお健在であった元重の姿が記されている。高齢の元重が、戦乱の傷跡が残る京都の町中で、孫たちのために「蜜柑(みかん)」を探し歩いていたという記述は、かつて二条御所を警衛した老将の、家族への深い愛情を伝える逸話として知られている[1]。