秋庭元明
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出自
秋庭氏は、鎌倉時代に備中国有漢郷を本拠とした有力国人。元明の遠祖にあたる秋庭重信(秋庭三郎)は、承久の乱での軍功により備中守護代に任じられ、松山城を築城したことで知られる。その後、一族は一時勢力を後退させるが、元明の代には細川氏(細川京兆家)の重臣として復権を果たし、再び備中守護代の職を務めることとなった[1]。
細川京兆家への出仕
備中松山城主・秋庭頼次(よりつぐ)の子として誕生。秋庭氏は鎌倉時代から備中に土着した有力国人であるが、元明の代には細川勝元の側近(実務官僚かつ軍事指揮官)として京都に常駐。京兆家の支配下にある備中・摂津の両国で備中守護代、摂津守護代という重職を兼ね、中央政界と直結した地位を築いた[1]。
前期の軍功
- 嘉吉の乱(1441年):将軍・足利義教暗殺後の赤松氏討伐に参戦。討伐軍として播磨国蟹坂の戦いや白旗城攻めで軍功を挙げた(『後太平記』)[1]。
- 将軍供奉(1449年):宝徳元年9月、将軍・足利義政が天龍寺へ参詣した際、元明も随兵となって赤松貞村や大友氏世ら有力大名と共に「八番の列」に加わった。その服装は何れも帯刀・直垂を着し、布衣の役人もすべて行列を組み、非常に立派であったと記されている[1]。
応仁の乱と大物浦の敗退
応仁の乱(1467年〜1477年)が勃発すると、元明は東軍・細川方の主力部将として各地を転戦した。乱初期には大手南方の実相院付近の守備を担当し、西軍と数日間にわたり交戦した。 同年8月、西軍に味方する大内政弘・河野通春らの大軍が摂津大物浦(現・兵庫県尼崎市)に迫ると、摂津守護代であった元明は、赤松政則らと共にこれを迎撃した。しかし、瀬戸内海の制海権を持つ河野水軍の猛攻に遭い、赤松勢が敗走。元明も多勢に推され、一時京都への撤退を余儀なくされた[2]。
東岩倉の戦いでの逆転劇
京都へ退却した元明であったが、直後の9月には即座に反撃に転じる。西軍の大内政弘・山名教之らが京都奪還を狙って入京し、入江景嗣らが東岩倉山(現在の京都市左京区粟田口付近)に陣を敷いた。 元明は、浦上宗則(赤松氏重臣)の援軍を得てこれと対峙。数に勝る山名・大内軍に対し、元明ら東軍勢3,000余騎は東岩倉山に陣を布き、攻め寄せる3万余の軍勢を激戦の末に撃退した。この勝利は、大物浦での敗退によって動揺していた東軍の士気を立て直し、京都の戦況を膠着状態へと持ち込む決定打となった(東岩倉の戦い)[1]。
備中守護代としての実務と新見荘支配
軍事的な活躍の裏で、細川勝元の信頼厚い実務家・行政官としても活動した。
- 外交と取次:『蔭涼軒日録』によれば、将軍や管領の奏者(取次役)として細やかな配慮を行い、有力国人(毛利豊元ら)との橋渡し役を担った。細川勝元から毛利豊元への伝言を託されるなど、京兆家中の実務において重きをなした[3]。
- 新見荘支配:備中守護代として備中新見荘の領地支配にも関与。細川勝元の意向を受け、実子・寺町又三郎を代官として送り込むが、現地荘民による激しい抵抗(土一揆)に直面。軍事力による制圧を試みるも、乱世特有の複雑な利害関係により、その支配の正常化には苦慮した[1]。
晩年と入寂
文明5年(1473年)、細川勝元が没すると、奏者番の職を嫡男の元重に譲り隠居した[1]。文明7年(1475年)には有漢郷(現・岡山県高梁市有漢町)へ帰郷し、同所に長松院(現在は廃寺)を開基したとされる。
文明7年(1475年)4月28日に入寂した(没年月日については永正6年(1509年)とする説もある)。法名は霊宝徳鐘居士。菩提寺である有漢郷の保寧寺(保等寺)に祀られている[4]。なお、相国寺の記録である『鹿苑日録』第一巻には、徳声明公禅門という別の法名も記録されている[4]。