秋田八丈
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- 1784年(天明4年) - 仙台藩で養蚕業を営んでいた石川滝右衛門が秋田藩(久保田藩)に移住し、養蚕や製紙、織物を始める。石見三内、船岡、仙北郡淀川に作業場を持ち、久保田五丁目川反に居住した。
- 1797年(寛政9年) - 秋田藩は本荘藩や亀田藩からの取立資金を元に、石川を「産物方」として物産振興を図る。養蚕や製紙、蚕卵紙、織物、桑、楮、漆の栽培、漆から蝋を得ること、草木皮より薬品を得ることなどの産業を秋田で進めた。
- 1800年頃 - 久保田藩主は上州桐生の蓼沼甚兵衛を招聘し、川尻総社前に染色の業を起こさせ、畝織や竜門織、黄八丈織を作って秋田絹の名を向上させた。
- 1814年(文化11年) - 秋田藩は「絹方役所」を設けて、奉行伊藤兵衛の道場を工場として、子女に絹織物を学ばせた。200人の職人として那波四郎に出納係を命じている。藩外移出を企てて那波祐生に江戸まで見本を持って行かせたが、蚕糸は取引があり一部の好評を得たが、織方は極めて幼稚かつ粗悪と評価されてしまう。那波祐生は江戸桐生の織機を購入したものの収支は赤字であった。
- 石川の方法と蓼沼の方法を統合し、金易右衛門や関喜内と協力し、秋田八丈をハマナスの根から染料を得ることにより完成させた。
- 天保年間(1830年 - 1843年) - 江戸では八丈島産の粗雑な黄八丈が流通していたが、秋田産の大量の秋田八丈が市場をしめるようになった。
- 1841年(天保12年) - 水野忠邦の天保の改革が本格的に始めると、驕奢な物は規制され秋田八丈の大きな打撃となる。安政(1854年)の頃に業が復活する。
- 1868年(明治元年) - 作業場が10戸あり、士族の婦女が従業することがおおかったとある。
- 1877年(明治10年) - 秋田市長野下新城に創設した男女70人程の工場が県営となった。その間4・5人を京都西陣に派遣して秋田八丈を改良していった。
- 1881年(明治14年) - 機業場の隆盛を見て、秋田県は全てを民間移転することに決めた。秋成社に払い下げされたときには、従業員が300余人で、織機が80余台であったという。東京日本橋一番丁目に販売店を営み、9月17日には明治天皇が秋田八丈の工場を巡幸した。
- 1883年(明治16年) - この官営工場で家財を投げ打って秋田八丈を改良した田中平八は52歳で没したが、八橋全良寺に旧藩士と職人により碑が建てられた。
- 1895年(明治28年) - 秋成社は外国からの新染料の輸入により衰退し、寺内将軍野の開拓地に移転するものの事業は廃止になった。その後、那波氏が中心となって研究を進め、変八丈を開発し、東京や京都、名古屋、北海道へと販路を広げた。
- 1894年 - 1895年(明治27 - 28年) - 日清戦争のため需要が減衰するものの、戦後すぐに回復した。
- 1903年 - 1904年(明治36 - 37年) - 器具改良による取引高増加により黄金期を迎える。
- 1905年(明治38年) - 日露戦争の終結により廃業や休業が多くなる。新しい流行の柄への対応が遅れたり、織物消費税のためであった。
- 1914年 - 1918年(大正3 - 7年) - 第一次大戦の頃に大盛況になる。
- 1923年(大正12年) - 関東大震災の大打撃を受ける。
- 1929年(昭和4年) - 滑川五郎[1]のみが秋田八丈を続けていくことになる。
- 1980年(昭和55年)1月10日 - 滑川晨吉が秋田県指定無形文化財に指定される。
- 2003年(平成15年) - 滑川晨吉が高齢のため、滑川機業所が廃止となる。
- 2005年(平成17年) - ただ一人の従業員であった奈良田登志子が工場施設を譲り受け、北秋田市綴子字田子ヶ沢29(北緯40度16分26.5秒 東経140度20分29.5秒 / 北緯40.274028度 東経140.341528度)で「ことむ工房」として独立した。
- 2023年 (令和5年) - 北秋田市綴子字糠沢上谷地290-2 に工房が移動し、「はまなす工房」へ工房名を変更した。
